捕鯨の町の未来のために
 〜捕鯨産業に蹂躙された町、鮎川〜

<目次>

0.  はじめに
1. 牡鹿町の概要
2. 鮎川捕鯨の歴史
  2-1) 近代捕鯨前史
  2-2) 鮎川の近代史
  2-3) 沿岸捕鯨の成立〜外来資本による捕鯨の導入
  2-4) 沿岸小型捕鯨の誕生と衰退
3. 牡鹿町の現状と捕鯨の経済的効果
  3-1) 牡鹿町の産業の全体像と捕鯨
  3-2) 捕鯨の経済的地位
  3-3) 鯨肉の流通
  3-4) 現在の鯨関連業種
    (1) 鯨肉卸売業
    (2) 鯨歯加工
    (3) 鯨肉小売業
    (4) その他の鯨関連産品〜菓子類・木彫品
  3-5)  牡鹿町の漁業
  3-6) 観光
    (1) 観光の現状
    (2) おしかホエールランド
    (3) ホエールロードほか
  3-7) 牡鹿町の人口の推移
4.  地域文化と捕鯨
  4-1)  祭事と捕鯨
    (1) 鯨祭
    (2) 施餓鬼供養
    (3) 慰霊塔
    (4) 鯨霊供養祭
  4-2)  教育活動と捕鯨
    (1) 学校給食における鯨食
    (2) 牡鹿町に関する副読本
    (3) 彫刻教室
5.  おわりに参考文献>
<地名読み>

※このレポートは、1996年にクジラ問題ネットワークが発行しアバディーン
 のIWCで配布した「AN INVESTIGATION OF SMALL TYPE COASTAL WHALING IN 
 JAPAN / A Scond Report on the Past, Present and Future of Ayukawa」
 の日本語版テキストである。
 クジラ問題ネットワーク版は、この日本語テキストをもとに英訳して作成
 された。ごく一部、英訳に際して省略された部分がある。

※小さくサムネイルで表示されている写真は、クリックすれば別のウィンド
 ウがひらき、もっと大きなものを見ることができます。
 また、特記なき写真は1996年に撮影されたものです。

※更新履歴
 これは、2004年1月5日に、2003年撮影写真を追加したものです。
 <初版のデータ>


0. はじめに  このレポートは、1989年にエルザ自然保護の会からの委託を受けた阿部治氏 がまとめた「捕鯨問題レポート (2) -―鮎川捕鯨の過去、現在、未来―- 」を 基礎とし、1996年に補足調査を行ってまとめたものである。  このレポートの目的は、鮎川捕鯨の成立過程からその後、商業捕鯨が禁じら れて10年近くが経過した時点までの推移をまとめることである。わが国の主な 捕鯨基地としては、ほかに太地(和歌山)・和田浦(千葉)・網走(北海道) などがあるが、これらの中で鮎川を調査地に選んだ理由は、当地が沿岸捕鯨基 地としてわが国最大の規模を誇っていたこと、遠洋捕鯨の乗組員を多く輩出し ていたこと、その後クジラをテーマとした観光地として売り出そういう計画が あり現在に至るもクジラが町の重要な基盤のひとつとなっていること、などが あげられる。すなわち、鮎川は、過去には名実ともに日本を代表する捕鯨の町 であったことがあり、現在も、そして未来も、クジラとは深い縁を持ち続ける であろう町であるということである。  鮎川に行くことを決めた時点では、多少の資料集めくらいはする予定ではあ ったものの、率直なところ、あとは観光を楽しむ程度のつもりだった。しかし ながら実際に鮎川を訪れてみると、これまで捕鯨問題についていろいろ調べて きた者としては、やはり商業捕鯨が終了したあとの鮎川の現状、そしてこの町 の未来には、おおいに興味をそそられ、多少は町民の方々への聞き取り調査な ども行った。それらの情報をまとめたのがこのレポートである。  また、このレポートは、阿部氏のレポートをアップデートしたものである。 従って、その構成などについては阿部氏のレポートをかなり参考にさせて頂い た。  このレポートはいわば予備調査の取りまとめであり、鮎川の捕鯨に関する調 査としては不十分なものであることをお断りしておく。個人的に、追って更に 詳細な追跡調査を行いたいとも思っている。  本文に記載されたデータは、前回の調査による阿部氏のレポートに記載され たもの・今回の調査におけるヒアリング、及び牡鹿町史・町立捕鯨博物館作成 資料(旧鯨博物館)・町勢要覧・国勢調査によるものである。本来ならばそれ ぞれのデータの出典を明確に記載しなければならないが、その作業は今後の本 調査によるレポートに待つものとし、一部のみ記した。 1. 牡鹿町の概要  牡鹿町は、旧鮎川村と旧大原村が1955年 3月に合併してできた町で、宮城県 の東北部にあり、太平洋に向かって南に突き出した牡鹿半島の中央部及び先端 部を占めている。このため、牡鹿半島のつけねにあたる北方で石巻市と女川町 と接しているものの、他の3方は海に囲まれている。牡鹿半島周辺は、世界三 大漁場のひとつとも言われる好漁場である。また、牡鹿半島の先端部の沖には、 信仰の島として古くから有名な金華山があり、観光の名所ともなっている。過 去に捕鯨で賑わったことがあり、また現在も牡鹿町の町役場が置かれている鮎 川浜は、この金華山観光(参拝)のための渡船の発着港となっている(なお、 この「鮎川」と「鮎川浜」の使い分けであるが、地名としては「鮎川」、集落 名としては「鮎川浜」という言い方が使われるようである)。  鮎川への交通アクセスは以下のとおりである。  公共交通機関を使った場合には、仙台からJR東日本の仙石線で約1時間で石 巻に到着する。そこから1日7便のバスで約1時間30分で鮎川に到着する。タ クシーを使った場合、石巻から約45分・9000円前後となる。  自動車を使った場合には、仙台から 1時間余りで石巻に到着する。その後、 石巻から牡鹿半島の西海岸をたどる道、女川方面から牡鹿半島の東海岸をたど る道があるほか、半島のつけねの女川寄り地点から先端まで、ほぼ半島を縦貫 するかたちで牡鹿コバルトラインと呼ばれる観光道路が通じている。牡鹿コバ ルトラインは1971年 4月に県営の有料道路として開通した道路であるが、1996 年 4月より無料となり、利用者の増加が期待されている。  町の人口は6773人である(1990年国勢調査)。  牡鹿町の経済基盤を見ると、労働人口の40%が水産業に従事している。産業 別に見た場合の第二位はサービス業(16%)、第三位は卸売り及び小売業(11 %)となっており、第三次産業の合計は38%となる(1990年国勢調査)。また、 純生産高で見た場合には、水産業が26%、サービス業が25%となり、水産業と 観光業が二大産業の地位を占めていることがわかる(町勢要覧1992年版に掲載 されている市町村民所得統計推計による)。  牡鹿町の総人口のうち30%前後が鮎川に集中しており、また町役場も鮎川に 置かれている。鮎川は牡鹿町の政治・経済の中心である。  明治中期まで55戸ほどの寒村にすぎなかった鮎川が、牡鹿町の中心地として 発展したのは、明らかに、捕鯨会社の進出による捕鯨基地としての歴史による ものと言えよう。しかしながら、捕鯨の全盛期である1970年代を迎える前に、 1960年代より、人口の減少がはじまっており、現在でも減少傾向は強い。その 後、捕鯨の事実上の終了及び漁業構造の変遷などもあって、牡鹿町、特に鮎川 浜は、観光の町としての性格を強めつつ、現在に至っている。 <資料・牡鹿町の人口> 年次 1960 1965 1970 1975 1980 1985 1990 ------------------------------------------------------ 人口 13405 11974 10581 9535 8450 7814 6773                (1990年国勢調査より作成)
鮎川浜全景。海沿いの県道から港を見下ろす。集落の中心地はこの左側(2003年撮影)。
2. 鮎川捕鯨の歴史 2-1) 近代捕鯨前史  牡鹿町は、南西部にあたる旧鮎川村地域と、北部にあたる旧大原村地域にわ かれる。  この旧鮎川村地域には、鮎川浜・十八成浜(以上牡鹿半島)・長渡浜・網地 浜(以上網地島)・金華山(以上金華山。金華山は鮎川浜に含めることが多い 模様)の集落があったが、その中の鮎川浜が近代捕鯨の根拠地であった場所で あり、現在も牡鹿町の行政・経済の中心的な地位を占めている場所でもある。  鮎川近辺の山には、今から 10000年前ほど前から2000年ほど前までの縄文時 代には人が住んでいたことがわかっているが、その後しばらくは人が住んでい たという痕跡が跡絶えている。確かな資料を伴って生活の痕跡が認められるの は、1300年前後までジャンプすることになる。14世紀には、紀州から船でくだ ってきた船乗りたちが半島の各地に住み着いたといわれている。17世紀には紀 州より鰹釣漁法などが伝わって来ていたことがわかっている。  明治にはいり、1889年(明治22年)には、鮎川浜・十八成浜・網地浜・長渡 浜・金華山を統合し、鮎川村となった。  さて、金華山沖の鯨資源だが、これに着目していた者は、江戸時代から存在 した。記録によると、文政年間(1818〜1830)に金華山沖での捕鯨の効用を説 く文書があるとされ、1838年にはこの付近で少なくとも 4頭のクジラが捕獲さ れているという(ただし鮎川ではなく大須浜・江ノ島)。  また、江戸時代には、シャチに襲われて逃げ込んできた寄り鯨を捕獲したと いう記録が残されている(ただし鮎川浜ではなく長渡浜・十八成浜・谷川浜の こと。鮎川浜の集落史からは、寄り鯨などの記録は発見できなかった)。イル カの引き網漁の記録もある(これもまた、鮎川浜ではなく、大原浜・給分浜の ことであるとされる)。  明治になってからも捕鯨を試みる者がおり、1887年(明治20年)には金華山 沖で捕鯨銃を使ったマッコウクジラ漁が試みられ、少なくとも 1頭が捕獲され ているという(仙台資本によるもの)。その後も、田代・渡波(以上、現石巻 市)・仙台などの資本による小規模な捕鯨会社がいくつか設立されたが、しか しながら操業には見るべきものがなかったとされている。  1906年(明治39年)には、東岸の寄磯浜(旧鮎川村ではなく、旧大原村に属 する)でも、地場資本によってアメリカ式捕鯨を試みる金華山漁業株式会社が 設立されている。この金華山漁業株式会社は 300トン級の大型帆船を保有して 金華山沖で操業をしたが、直後に鮎川などに進出したノルウェー式捕鯨に蹂躙 され、ほとんど成果をあげることができなかったとされる。  これらの事情を総合すると、1906年に東洋捕鯨が鮎川に進出してくるまでの 間、鮎川は、捕鯨とは全く無関係な集落であったと考えられる。確かに金華山 沖などの海域には鯨が多く、それをターゲットとする捕鯨産業は特に江戸時代 末期から多少は試みられてきた。しかしながら大原村寄磯浜のものを除けばそ のすべては現牡鹿町とは無関係な人々が企画したものであり、それらの試みを 現在の「鮎川の捕鯨」につなげて理解するのは、極めて困難である。 <資料・近代捕鯨開始前の寄鯨及びイルカ漁の記録>  1665年(寛文 5年)給分浜・大原浜、イルカ漁の利益配分で争う(なお、      このあたりの浜は、イルカ漁以外でも頻々と争っている)。  1673年(延宝 3年)給分浜・大原浜、寄鯨の分配金で争う。  1677年(延宝 5年)給分浜・大原浜、イルカ漁の利益配分で争う。  1714年(正徳 4年)給分浜・大原浜、イルカ漁の利益配分で争う。  1731年(亨保16年)小淵浦・大原浜、イルカ漁の方法について争う(イル      カ漁を行った上で争ったのではなく、やり方をめぐって争った模      様。漁場の縄張り争いとみられている)。  1750年(寛延 3年)給分浜・大原浜・小淵浦、イルカ漁の利益配分で争う。  1759年(宝暦 5年)給分浜・大原浜、イルカ漁の利益配分で争う。  1762年(宝暦12年)給分浜・大原浜、イルカ漁の利益配分で争う。  1865年(元治 2年)十八成浜にシャチに追われた寄鯨1頭(1864年とする記      事もある)。  1885年(明治18年)大原浜で鯨捕獲。10.8メートルとの記録。                       (「牡鹿町史」より作成) 2-2) 鮎川の近代史  さて、ここで一度、捕鯨から離れて、鮎川の産業構造の変遷を見ておこう。 鮎川の歴史の中で、捕鯨という産業がどのような位置付けであり、かついかな る影響を与えてきたのかということを見なければ、捕鯨の位置付けもまた理解 が困難であると思われるからである。  なお、この項目の各集落の歴史は、大半を「牡鹿町史」によった。  近代捕鯨以前の鮎川は、たとえば1883年(明治16年)の宮城県水産綴による 1879〜1883年(明治12〜16年)の漁獲高資料によると、金額順位で上から、タ イ・マグロ・イワシ粕・アワビといったものが主力であったとされる。これら の資料から当時の漁業を解析すると、大網(定置網)などによる沿岸漁業が主 流の漁村であったよう推測できるという。江戸時代には地引網が行われていた 形跡も認められる。その後の1907年(明治40年)の調査では、鮪延縄・流網・ 鮫刺網などの沖合漁業によると思われる漁獲物も登場しているとのこと。地場 資本による、沿岸漁業から沖合漁業に向けての移行が、徐々に発生してきてい たことが読み取れる。  ただし、鮎川などでは漁業株の集中などによる地場の漁業資本家の登場など がみられたが、定置網が村網として運営され、漁獲物は均等に配分されていた ことから、漁業資本家の登場が遅れていた集落もあった。  捕鯨産業が進出して来なかったら鮎川の漁業の歴史はどうなっていたのだろ うか。その推理のための資料として、捕鯨産業の進出がなかった小網倉浜の歴 史を主軸として、簡単に紹介しよう。  沿岸漁業から沖合漁業への移行が大きな流れとなったのは、明治末期から大 正にかけての時期であるとされる(1910〜1920年頃か?)。この頃、漁船の動 力化が進み、まず先行する漁業資本家などが沖合漁場に進出した。ところが、 動力船をもって沖合いに進出した漁民は、底曳網漁を盛んに行い乱獲を繰り返 したことから、地先海面が荒廃、沿岸漁業は大きな被害を受ける(同様のこと が寄磯浜でも起こったようで、牡鹿町史は寄磯浜の漁業について「大正、昭和 にかけておこった機船底曳網の発展につれてこれらの漁場(注:地先海面のこ と)は荒らされ、赤魚漁業もサメ刺網も衰え」と表現している。時期が若干異 なるが、幅がある表現であるため、前後関係ははっきりしない)。  こうして、沿岸漁業から沖合漁業へという流れは更に加速されていくことに なる(これらの大規模化した漁業資本の中には、牡鹿町から女川・石巻・塩竃 などの地域に流出したものがかなり存在するという)。  沖合いに向かわなかった漁民は、ほぼ時を同じゅうして、魚から牡蛎などへ とシフトし、その後天然牡蛎の枯渇から種牡蛎を使った浅海養殖漁業へ、更に さまざまな魚介類の養殖へとつながる、別の道を歩むことになった。  対して、捕鯨産業が押し寄せてきた鮎川はどのような歴史をたどったのか。  1906年(明治39年)の東洋漁業の鮎川への進出、それに続く土佐捕鯨・紀伊 水産・長門水産などの進出によって、鮎川の漁業産業の成長は、大きな影響を 受けることになる。通常は、小網倉浜などのように、現地に生まれた漁業資本 家などの主導によって、沿岸漁業から沖合漁業へという流れが生じるはずであ った。ところが鮎川においては、漁業資本家は漁業へは向かわず、鯨肥生産業 などに移行していったのである。また、小規模な沿岸漁業などを行っていたは ずだった漁民の多くも、外来の捕鯨資本に取り込まれ、独立した漁民から賃金 労働者へと変貌していった。流入してきた捕鯨資本には、今も食品商社として 盛業中の巨大資本(現在のマルハ、ニッスイなど)もあれば、若干先行して資 本の統合が行われた近隣漁村などの小規模資本もあり、さまざまであったが、 いずれにせよ鮎川は、自力での資本主義システムの成長を待つことなく、いき なり圧倒的な力を持つ外部資本によっての経済構造の変革を余儀なくされたの である。  このことは、単に産業構造の変革だけをもたらしたのではなく、村落共同体 の変質をも招いた。居住者が、加工業者や雇用労働者に変わり、また外部から の流入者が増えるに従って、鮎川では、藩政時代からの緊密な村落共同体の形 が早くから崩れていたとされる。  更に、捕鯨船のサポートや鯨肥産業などの大資本に対する従属的な産業は生 まれたものの、それらの産業を担った資本家は、出自が鮎川であった者も含め て必ずしも鮎川を地盤とは考えなくなっており、捕鯨関連産業の隆盛で蓄積さ れた資本のかなりの部分が、鮎川から流出していった。地場の漁業資本の石巻 などへの流出は鮎川だけに起こったことではないが、それより遥かに早い時期 から、鮎川からの資本の流出は発生していたのである(後述の 2-3における鮎 川捕鯨の関係者による石巻近辺での土地購入の事例などを参照せよ)。  このあたりの推移について、「牡鹿町史」は、次のように述べている。  「大正11年から13年(1922〜4) にかけて機船底引き網漁業を経営したものが 三人程現れたが鮫延縄と同様に捕鯨業の根拠地となった鮎川浜では消滅の道を たどる他は無かった。かくして沿岸漁業の内部より分化成長した沖合、遠洋漁 業の萌芽は鮎川浜においては開花することなく戦後を迎えることになるのであ る」。  こういった町の経済の変質は、単に経済構造の問題だけにはとどまらなかっ たようだ。  聞き取り調査の中で、ある町民は、鮎川の町風について「定置網思考」とい う言葉を使った。これは、自力で未来を切り開こうとする気概が薄く、依存体 質が深いということを意味して使われた言葉である。定置網は、網を張って、 待つという漁法である。「産業が来るのを待ち、自らは積極的に動かない」と いう風潮が、鮎川には強いという。  明治から昭和にかけての激動の時代に、鮎川は、自力で未来を切り開くとい うチャンスを奪われ、大資本に蹂躙され続けた。それと同時に、捕鯨産業によ るバブリーな好景気によって、地域全体が浮かれてしまってもいた。現在の鮎 川の苦境は、日本全国で進行中の「過疎」という社会現象によるものが大きい が、鮎川に特異な事情があるのだとすれば、それは「大資本が一斉に手を引い たことから、経済の上でも、意識の上でも、大きな痛手を受け、立ち直るまで に時間がかかっている」とまとめることができるように思われる。現在でも、 観光産業などの振興をする上で、この「定置網思考」が大きな障害となってい る、と、その町民は指摘した。  鮎川は今、その「捕鯨産業の後遺症」から立ち直るために、自らを励まし、 懸命の努力をしているところだと言えようか。  次章からは、この構造の中での捕鯨産業の歴史を、詳細に眺めてみたい。 2-3) 沿岸捕鯨の成立〜外来資本による捕鯨の導入  1906年(明治39年)、東洋漁業株式会社が鮎川に社員を派遣し、捕鯨事業所 の開設に着手した。東洋漁業株式会社の前身は、日本における近代捕鯨の創設 者といわれる岡十郎が1899年に、現在の山口県長門市仙崎に設立した会社であ る(この時の会社名は日本遠洋漁業株式会社であった。なお、「北の捕鯨記」 など、この当時の社名を日本遠洋捕鯨株式会社とする資料も存在する)。日露 戦争後の捕鯨業界の統合の際に、日本遠洋漁業は他社と合併改組し、東洋漁業 となった。東洋漁業の鮎川進出は、山口における操業の成功により捕鯨事業を 拡張する中で行われたもので、ほぼ時を同じくして同社は四国沖(土佐)・房 総沖・金華山沖に事業を展開した。  鮎川には、捕鯨事業船ミハイル丸3643トン及び捕鯨船ニコライ丸 130トンが 回航され、同年 6月11日にシロナガスクジラを捕獲した。ミハイル丸は、係留 式の工場船で、鯨体の解体ができたほか、船内には製油設備・貯油庫・骨肉粉 砕機・乾燥機などが備えられていた。これらはいずれも、日露戦争により日本 が拿捕した元ロシア船籍のノルウェー式捕鯨船であり、東洋漁業が日本政府か ら借り受けていた。ここから鮎川における捕鯨時代が到来する。  なお、この東洋漁業の鮎川進出に際して、鮎川浜には、鯨の解剖による海の 汚染を心配しての反対があったと伝えられている。捕鯨産業の鮎川進出は、必 ずしも鮎川浜にとっては歓迎すべきものとは言えなかったということである。  こういった懸念は各地で問題となっており、たとえば後日1911年11月には青 森県八戸に進出した東洋捕鯨の事業所が焼き打ちにあったというような、激し い反対運動に直面したケースも出てきている。  しかしながら鮎川では、当時すでに漁業株を持つ有力者は少数に統合されて おりそれらの人々が捕鯨産業の誘致に傾いていたことや、東洋漁業が鮎川村に 対して寄付をなすなどの申し出をしたことから、捕鯨産業は鮎川に進出を果た した(あいついで鮎川に進出した土佐捕鯨や紀伊水産も、鮎川小学校などに対 して、多額の寄付をしている)。  東洋捕鯨の進出後しばらくは、出荷される上質鯨肉以外は、そのまま海洋に 投棄されていた。これらは対岸の網地島、北方海上の田代島、牡鹿半島西岸で 鮎川より北にあたる大原などまで流れて漁場を汚染し、周辺の漁民は大いに迷 惑したという記録が残されている。  しかし翌1907年(明治40年)、鯨皮から鯨油やゼラチン、余剰肉などから鯨 肥を生産することが持ち込まれ、更に翌1908年(明治41年)にはそれらの利用 法をまねた企業が続々と設立されたことから、海洋汚染問題は解決に向かった。 製造方法は外部から持ち込まれたものだが、鮎川でそれらの生産にたずさわっ たものの多くは地場資本であったとされる。  この、鯨肥生産は、捕獲された鯨の利用のかなりの部分を占めていた。鮎川 で捕鯨が行われるようになった頃、捕鯨会社は、鯨肉の上等な部分約1割程度 を塩竃経由で関西に出荷していたが、それ以外の部位は利用していなかった。 それらの余剰物資は、前述のように最初は海に投棄され、のちに鯨肥生産など に利用されるようになった(*1)。しばしば「日本では、鯨の内臓などまで食べ ていた。一頭まるごと利用していた」とする鯨産品利用の文化が主張されるが、 鮎川の捕鯨(あるいは、日本の近代捕鯨)は、そういった旧来の利用法とは異 なる系列の利用法であり、伝統に断絶があったということである。日本におけ る近代以降の産業的捕鯨は決してそれまでの伝統捕鯨の延長線上にはなかった こと、また、鮎川における捕鯨産業の経済的効果は、鯨肥生産という、現代で はおそらく再開の意味がない産業によるものが大半を占めていたということを、 ここで確認しておきたい。  1911年(明治44年)には、当時日本国内にあった全12社の捕鯨会社のうち実 に 9社までが牡鹿半島内に事業所を構えるに至った(ただし、鮎川浜とは限ら ず、十八成浜(*2)・小淵(*3)・荻浜(*4)などのものも含まれる)。鮎川には、 うち東洋捕鯨(東洋漁業が1909年に他社と合併して社名変更)・土佐捕鯨・紀 伊水産・長門捕鯨の4社(*5)が事業所を構えていた。土佐捕鯨以外の3社は、 最終的には東洋捕鯨を含む山口系水産会社を母体として成立した日本水産に統 合される。また、土佐捕鯨は、いったん釜石に去ったあと、十八成浜の住民に 出資して小規模捕鯨会社を設立、その後買収するというかたちで舞い戻ってい る(土佐捕鯨はのちに下関の林兼商店と合併、大洋捕鯨・大洋漁業を経てマル ハとなった)。 *1 鯨肥とは、鯨肉・骨・皮・内臓などを煮て、そのあと天日で干し、石臼な   どで粉砕して作られる肥料のこと。出荷された上等の鯨肉以外の、中等・   下等とされた鯨肉も、主として鯨肥生産にまわされた。内臓なども、一部   地域では食用にされたことがあったものの、鮎川では鯨肥の原料となって   いた。当時の鯨肥生産業者の配置などについての資料も残されている。 *2 十八成浜の捕鯨:1910年(明治43年)進出の藤村捕鯨。1928年に土佐捕鯨   に吸収合併される。この会社の前身は、木材の製造販売を本業としていた   丸三製材株式会社が作った捕鯨部だが、業績不振から独立を余儀なくされ   た。十八成浜に進出したのは、同社独立直後と思われる。   ほかに十八成浜に存在した捕鯨企業には、1923年創業・翌年創業開始の遠   洋捕鯨合資会社がある。遠洋捕鯨合資会社は、林兼商会(のちのマルハ)   の資金援助を受けて地元住民が設立した会社であり、目的は鮎川捕鯨(後   述)同様、鯨肥生産にたずさわる地場産業の原料の安定した確保であった。   1930年に株式会社に改組したが、1945年(昭和20年)には結局大洋漁業に   吸収合併された。 *3 小淵の捕鯨:1909年(明治42年)進出の大日本水産。鯨体処理場が開設さ   れたのは翌1910年のことらしい。大日本水産は東京本所に本社を置く会社   で、九州呼子の伝統捕鯨業者出身の小川島捕鯨株式会社と共同で捕鯨船2   隻を輸入し操業した。1909年の「日本捕鯨業組合総会議案」には、同社の   拠点として、串本・太地(以上和歌山県)・宗谷・熊雄(以上北海道)・   対馬(長崎県)・小川島(佐賀県)・敦賀(福井県)そしてここ、牡鹿半   島小淵の8ヶ所が挙げられているという。   しかしながらこの会社は、1916年には早くも小淵から撤退し、鮎川に移動   する(同年、第二次捕鯨業界統合で大日本水産は東洋漁業を中核として設   立されていた東洋捕鯨グループに吸収されている)。会社側の立場からは   小淵の港は大型化する捕鯨船にとって狭かったこと、小淵側としては雇用   確保が予想したほどのものではなく小淵は潤わず強いて慰留する理由に乏   しかったこと、そして率先して誘致した者があっさり鮎川に移籍してしま   ったこと、東洋捕鯨の運営効率化のため、などの複合的な理由による撤退・   移転であると考えられている。 *4 現在は石巻市。未調査。 *5 東洋捕鯨の本社は山口県下関。土佐捕鯨は高知県奈半利村。紀伊水産は和   歌山県串本。長門捕鯨は山口県仙崎(現在の長門市)。1916年の第二次捕   鯨業界統合の際に、紀伊水産・長門捕鯨は、東洋捕鯨に吸収される。  鮎川浜の地場資本が捕鯨に乗り出すのは、1925年(大正14年)である。設立 されたのは鮎川捕鯨株式会社で、鮎川資本による捕鯨を行ない、鯨肥の原料を 確保するのが目的であったとされる(現在、鮎川捕鯨があった場所は、1971年 に鮎川に進出した千葉資本の外房捕鯨の事業所となっている。鮎川港北側港外 にあたる)。これは、鯨肥生産が外部資本による捕鯨業者の着目するところと なり、自社生産が始められ、原料供給が不安定になったことが理由となってい る。そこで、自力での原料確保を目標として、地場資本である鯨加工業者(鯨 肥業者など)の出資による自前の捕鯨会社が設立されたというわけである。  鮎川捕鯨は、創業初年の1927年(昭和 2年)には、早くも百頭以上のマッコ ウクジラを捕獲し、上々の成績であり、その後更に業績を伸ばしたという。  しかしながら1929年の大恐慌による不況から再び捕鯨業界の再編成が行われ、 鮎川捕鯨も1937年(昭和12年)には、南極海捕鯨を目指す外部資本に買収され て姿を消す(スマトラ拓殖会社を経てのちに極洋捕鯨に吸収された)。買収に 際しては、鮎川捕鯨が保有していた 200トン級の大型捕鯨船「鮎川丸」、そし て鮎川丸を運用し得るだけの乗組員に、外部資本が興味を示し、猛烈な争いが あったとされている。  ところで、鮎川捕鯨が盛業中の時期のエピソードだが、同社の株主らは争う ようにして石巻などの土地を購入していたという。鮎川捕鯨の関係者が石巻近 郊に購入した土地は50ヘクタールにも及ぶと推測されている。鮎川の地場資本 で設立された鮎川捕鯨は、確かに設立は鮎川の地場資本によるものであったか もしれないが、必ずしも利益が鮎川に還元されたとは言いがたいものであった ようである。それどころか、鮎川の地場資本すら、石巻など、鮎川よりも有利 な場所を求めて流出していったという、鮎川にとって冷酷な事実を突きつける ものと言えよう。  1939年(昭和14年)に、牡鹿半島の北東側のつけねにあたる女川に鉄道が通 った。牡鹿町史は、鮎川への鉄道誘致に失敗したこととあわせて女川への鉄道 開通に触れている。「昭和14年10月、女川線は開通した。鮎川浜はそれによっ て一層捕鯨に傾斜せざるを得なくなったが、その危険性を知る者は少なく、た とえ知っていても最早如何ともすることは出来ない時の流れであったろう」と いうのが、その部分である。 2-4) 沿岸小型捕鯨の誕生と衰退  鮎川に小型捕鯨が登場したのは、1933年(昭和 8年)のことであるとされて いる。これもまた、外部由来のもので、小型捕鯨は和歌山県太地から移り住ん で来た者によって持ち込まれた。この年、試験操業を行った太地の船は主にミ ンクを捕獲したと記録に残されているが、当時はミンク鯨肉は安かったため、 企業的には成功しなかった。漁期が終わったあと、この船は鮎川資本が買収し た。  この船は6.25トン(「クジラの文化人類学」による)あるいは 5トン(「鮎 川町史」による)の小型の捕鯨船で、ゴンドウ用前田式5連銃と26ミリ捕鯨砲 を装備しており、太地出身者2名と鮎川出身者2名とが乗り組んでいたという。  第二次世界大戦中も、金華山沖での捕鯨は継続された。小型捕鯨は、大型捕 鯨船が特設軍艦として使うために軍に徴発されたことなどから注目され、国策 として推進された。1944年(昭和19年)には鮎川には3隻の小型捕鯨船があっ たが、更に敗戦(1945年昭和20年)後は増加、1957年(昭和32年)には実に13 隻もの大船団となっていた。  また、牡鹿半島東岸の寄磯にも、一時期小型捕鯨船が存在したという。これ は1943年の大戦末期に食糧増産のためにはじめられたもので、2隻の捕鯨船が あった時期もある模様。ただし捕鯨船を戦時徴用されたことから消滅した(敗 戦後の一時期、食糧難対策のために復活していたという)。  敗戦後の1947年(昭和22年)には、鮎川には大洋漁業・日本水産・極洋捕鯨 の3社が事業所を構えていた。当時の就業人口約5800人のうち、実に7割ない し8割が、上記3社に関係する人々であったと見込まれている。しかしながら、 1950年(昭和25年)、まず日本水産の事業所が女川に移転した。鮎川ではこの 移転に反対する請願を行ったが、移転を止めることはできなかった。  日本水産の撤退に関して、「牡鹿町史」は次のように述べている。  「当時日本の大手捕鯨資本の重心は、沿岸捕鯨から南氷洋の母船式捕鯨へと 移されていたのであり、捕鯨船も大型化し、漁港設備が整備され交通手段にも 恵まれた女川町が捕鯨会社にとっても有利な根拠地になっていた。大手の捕鯨 資本にとっては、単に金華山漁場が近いというだけのことで殊更不便な鮎川港 に止まるべき理由は何ものもなかった」。  外部資本による捕鯨会社の撤退は、国鉄女川線が開通する前の1937年(昭和 12年)頃から、噂としては流れていた。最初に噂が流れてから10年余り、つい に資本引き上げが現実のものとなったわけである。  更にその後、1965年(昭和40年)には極洋捕鯨も鮎川を去り、1977年(昭和 52年)には大洋漁業も去ることになる。この2社の移転先は、いずれも、近隣 の漁業基地の中では交通の便もよく設備も整っていた塩竃であった。  ほぼ時を同じくして、小型捕鯨船の整理統合など、捕鯨界の激震が始まった。  1961年(昭和36年)、鮎川には7隻の捕鯨船がいたが、鮎川資本の船はうち 3隻だけになっていた。1985年、日本政府が商業捕鯨からの撤退を決定した年 まで生き残れた地場資本の小型捕鯨船は、わずか1隻だけであった。現在でも 鮎川を4隻の小型捕鯨船が利用しており、IWC 規制外のツチクジラなどを捕獲 している。しかし、1955年(昭和30年)に設立された地場資本の鳥羽捕鯨が保 有する第75幸栄丸以外は外部資本である。また、一般には唯一の地場資本とさ れる鳥羽捕鯨だが、創立者の鳥羽養治郎氏は鮎川の出身者ではなく、気仙の出 身者である。  寄磯での捕鯨は、敗戦後の1947年前後に再開されたのち、1957年に発表され た小型捕鯨整理統合方針で終止符を打った。  また、小型捕鯨船の整理統合を乗り切るために、鮎川浜が主導権を取って、 1957年(昭和32年)に、北洋捕鯨という会社が作られた。この会社は大型捕鯨 船を保有する権利を持っており、建造はしなかったものの実際に大型捕鯨船を チャーターして北洋捕鯨に参加したことがある。しかしながらこの会社は、早 々に捕鯨の先行きに見切りをつけ、遠洋漁業に転進している。 <資料・鮎川港における鯨の水揚げ/沿岸捕鯨(大型)実績> 年次 1955 1956 1957 1958 1959 1960 1962 1965 1970 1975 1978 1979 1980 ---------------------------------------------------------------------- 頭数 278 432 344 714 810 404 785 661 2178 1233 1054 498 628            (「捕鯨基地牡鹿町鮎川浜の歴史と現況」より作成)
外房捕鯨(千葉資本・本拠地は和田浦)の捕鯨船、第21純友丸。
同じく第31純友丸。2003年に再訪した際には、捕鯨船は発見できなかった。また、この造船所は場所を移動していたようである。
千葉県和田町の外房捕鯨本社社屋(1998年撮影)。
3. 牡鹿町の現状と捕鯨の経済的効果 3-1) 牡鹿町の産業の全体像と捕鯨  牡鹿町の産業別人口は、1990年(平成 2年)では、総就業者数3486人のうち 第一次産業が約45%(漁業及び水産養殖業だけでは約40%)、第二次産業が約 17%、第三次産業が約38%という内訳になっている。この点だけをみると「典 型的な漁業の町」というイメージが強い。しかし、産業別純生産でみると、総 純生産約 105億円のうち、第一次産業は約28%(うち漁業及び水産養殖業だけ では約26%)、第二次産業は約13%、第三次産業は約59%(うちサービス業だ けでは24%。ちなみにサービス業の就業者割合は約17%)となる。また、産業 別の推移を見た場合にも、第三次産業の特にサービス業の伸びはめざましい。 牡鹿町は、以上のデータから、「漁業と観光の町」と理解することができる。  1985年の資料によると、漁業及び水産養殖業は、純生産94億円のうち22億円 を占め(23%)、捕鯨産業はうち 6億円(全体の 6%強)であったが、これに は遠洋捕鯨従事者の分が含まれている。1983年実績では、宮城県内の遠洋捕鯨 従事者は99名、沿岸捕鯨従事者は 107名であったが(漁業センサスによる)、 1992〜1993年漁期での遠洋捕鯨(調査捕鯨)従事者数は宮城県全体で36名、牡 鹿郡では10名と激減している(船団での聞き取り調査による。なお、ほかに河 北新報91/11/26では、1991〜1992年漁期での日新丸乗組員の中に、宮城県出身 者が17名いると報じている。この数値はキャッチャーボート乗組員を含まない ものであると思われる)。また、鮎川浜における1996年時点での捕鯨産業従事 者の人数は、関係4団体の合計でおおむね50名前後であるという。  1986年以降の捕鯨産業単独での純生産については、資料が入手できなかった。 現在の鮎川の捕鯨産業に関する売り上げ資料は、牡鹿町がまとめた統計資料に は存在しないとのことで、入手できなかった。 <資料・牡鹿町の産業別人口の推移> 区分\年次 1960 1965 1970 1975 1980 1985 1990 --------------------------------------------------------------------- 総数 6231 5177 5008 4541 3907 3814 3486 --------------------------------------------------------------------- 第一次 農業 1263 755 592 334 174 172 146 産業  林業・狩猟業 115 92 68 59 33 20 13     漁業・水産養殖業 2877 2228 2449 2184 1785 1596 1406     計 4255 3075 3109 2577 1992 1788 1565 --------------------------------------------------------------------- 第二次 鉱業 --- 2 4 2 3 --- 1 産業  建設業 191 200 264 230 222 231 265     製造業 656 795 336 235 206 292 340     計 847 997 604 467 431 523 606 --------------------------------------------------------------------- 第三次 卸売・小売業 396 344 392 471 469 448 413 産業  金融・保険・不動産業 11 15 14 23 18 17 21     運輸・通信業 165 185 261 281 235 181 145     電気・ガス・水道業 15 21 17 15 15 12 12     サービス業 465 442 500 578 622 697 486     公務 77 98 109 127 125 148 136     分類不能の産業 --- --- 3 2 --- --- ---     計 1129 1105 1296 1495 1484 1503 1315                       (国勢調査より作成) <資料・牡鹿町の産業別純生産の推移> ※単位=10万円 区分\年次 1977 1978 1979 1980 1981 1982 1983 ---------------------------------------------------------------------- 第一次産業 25502 27398 28122 28499 25026 31302 31116   農業 4227 3765 4179 3504 2066 2114 1742  林業・狩猟業 2179 1934 2388 3033 1632 -33 1043  漁業・水産養殖業 19096 21699 21555 21692 21508 29121 27971 ---------------------------------------------------------------------- 第二次産業  11671 11939 11350 14011 17370 17441 17608   鉱業 27 28 10 23 27 28 30  建設業 4070 4572 4491 4312 4534 4921 4511  製造業 7574 7339 6849 9676 12809 12492 13067 ---------------------------------------------------------------------- 第三次産業  30451 36089 37072 39737 38283 42619 43949   卸売・小売業 7671 9204 8314 9447 8076 8809 8184  金融・保険・不動産業 3250 4731 4437 5526 5578 5877 7208  運輸・通信業 2312 2522 2734 3141 2750 3117 2931  電気・ガス・水道業 923 1782 1428 2258 2227 2125 2489  サービス業 12557 13754 15546 14483 14440 17065 17097  公務 3738 4096 4614 4881 5212 5626 6040 ----------------------------------------------------------------------  帰属利子(控除) 2203 2413 2409 2598 2146 2816 2958 ---------------------------------------------------------------------- 市長村内純正産   (要求費用表示) 65421 73013 74135 79649 78713 88546 89715 区分\年次 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 ---------------------------------------------------------------------- 第一次産業 26109 28925 35616 38527 34583 29692 30669   農業 1543 1848 2906 1576 1272 1408 2205  林業・狩猟業 1182 1270 793 731 403 953 645  漁業・水産養殖業 23384 25807 31917 36220 32908 27331 27819 ---------------------------------------------------------------------- 第二次産業  18773 19398 15528 20301 12590 12424 13629   鉱業 36 28 25 13 3 3 ---  建設業 4565 4507 4562 5059 4965 5146 5773  製造業 14172 14863 10941 15229 7622 7275 7586 ---------------------------------------------------------------------- 第三次産業  43715 48509 54887 57131 57967 60024 64638   卸売・小売業 8637 8986 9961 10574 10697 9865 9133  金融・保険・不動産業 6745 7543 6862 7624 8352 9738 9671  運輸・通信業 2587 2745 2678 3797 3954 4453 4873  電気・ガス・水道業 2448 4984 7980 7191 6739 6442 6601  サービス業 17009 17739 20003 21539 21377 21985 26401  公務 6289 6512 7403 6406 6848 7541 7959 ----------------------------------------------------------------------  帰属利子(控除) 2338 2518 2932 2946 2864 2817 3105 ---------------------------------------------------------------------- 市長村内純正産   (要求費用表示) 86259 94314 103099 113013 101717 99323 105831 (市長村民所得推計より作成) 3-2) 捕鯨の経済的地位  沿岸小型捕鯨に直接従事する者の資料があるのは1985年であるため(107人)、 1985年でみた場合、総労働人口のうちに占める捕鯨産業従事者の割合は 3%弱 ということになる。同一年の資料が得られなかったので参考程度にしかならな いが、1990年時点での総労働人口は3486人、1996年時点での捕鯨産業従事者数 は50人前後であることから、漁業従事者の人数が変わっていないと仮定した場 合 1〜2 %程度ということになる(1990年から1996年の間に、総労働人口は減 少しているものと考えられるので、1996年時点での総労働人口に占める捕鯨従 事者の割合は、若干高めに出ることが予想される)。  また、1985年の資料に基づき捕鯨産業の純生産を遠洋捕鯨と沿岸小型捕鯨で 従事者人数によって案分すると約 3億円となるが、これは1980年の総純生産の うちの約 3%となる。その後、ミンク捕鯨がなくなっていることを考えると、 現在の捕鯨産業の経済的地位は、決して高くはないと言えよう。  鮎川における捕鯨周辺産業については、「捕鯨問題レポート (2) -―鮎川捕 鯨の過去、現在、未来―- 」より引用する。 |  捕鯨の周辺にある加工・販売など、捕鯨に関連する業種の生産をも含めた場 | 合の経済的な地位については、論ずる資料がない。しかし、まだ捕鯨が隆盛を | 誇っていた時期の1971年(昭和47年)に出版された『日本地誌』の中で、小笠 | 原(当時東北大)は、牡鹿町の捕鯨について次のように述べている。 |  | 「........肉は、仙台・石巻・塩釜に陸送され、鯨油も同様で、関連工場とい | えるほどの企業の立地はみられない。わずかに鯨の骨・歯の加工業者が1軒あ | るにすぎない。肉・鯨油も地域外の自企業の加工部門に直送されるから、流通 | 部門に地元企業が介入する余地はない。捕鯨業と地元との関係は、漁期(5〜 | 10月)に処理場で60〜80人ほどの臨時雇用(多くは婦人)がみられるにすぎず、 | また捕鯨船の乗組員となっている者も少ない。町財政にとっては、係船・固定 | 資産税で若干の寄与があるにすぎない」 |  |  小笠原以前、1955年(昭和30年)の河北新報に竹内(当時東北大)は、鮎川 | 捕鯨の歴史と展望についてかなり詳細な記述を残している。その中で、鮎川捕 | 鯨の地元経済への貢献についても言及している。それによれば、戦前までは粗 | 雑な鯨肉処理が、かなり不安定ではあったが地元民に鯨肥生産などの「シシの | 分け前」的な生業を与えてきた。しかし、戦後派、経営の集約化とともに「シ | シの分け前」がなくなり、それに対処するために小型捕鯨への進出や沿岸定置 | 網が始められたが、資源的にその前途は多難であり、また捕鯨業の発展とは逆 | に地元労力のさばけ口が狭められつつある傾向があると指摘していた。さらに | 竹内は、鮎川の捕鯨を外部企業への寄生体質ときめつけ、「資源のあり方と技 | 術の進歩の相関によって、豊漁はすでに明日の不漁をその内に醸成しつつある | とさえいえる。そして、最大の漁業たる捕鯨には、特にそれが端的に示されて | いる」と、捕鯨基地としての鮎川の衰退を明確に予言していた。  鮎川における捕鯨の経済的地位についてもうひとつ付け加えれば、それは安 定した産業とは言いにくい側面があったということがあげられる。  たとえば、1931年(昭和 6年)には、不漁続きの上に世界恐慌による不況の 影響が出て鯨油などの在庫が山積みとなり、鮎川港からはすべての捕鯨船が消 え、会社は開店休業状態になったという記録がある。失業者も 200人に達して いたという。この窮状を打開するために、失業救済基金による土木工事(簡易 水道の建設や漁港の整備)が行われた。  聞き取り調査では、「鮎川は過去に何度も不漁や捕鯨産業の再編成などで大 きな影響を受けてきている。商業捕鯨の全面禁止も、そのできごとの中の最後 のひとつであるにすぎない」という指摘があった。こういった過去をふまえて、 1972年のストックホルム人間環境会議で捕鯨モラトリアム勧告が出された頃か ら、鮎川の人々は、捕鯨という産業をいずれは失うことになるであろうという ことを認識し、心の準備をしてきていたという。1987年の商業捕鯨完全中止の 際にはさすがにショックは大きかったというが、しかしそれまで無為に座して 見てきたわけではなく、産業構造の転換などは着実に行われてきていたそうだ。 従って、商業捕鯨完全中止もまた、心理的なショックはもたらしたものの、経 済的なショックはたいしたことがなかったと考える人も多い。  その商業捕鯨完全中止からもすでに10年。「鮎川の経済構造の中で、鯨産業 の衰退というこの歴史的出来事の悪影響は、現在もまだありますか」という問 いに対して、複数の町民は「悪影響はもう終わった」と回答している。  ただし、鯨肉の高騰などもあり、1996年現在、捕鯨産業そのものの採算性は 決して悪くない模様である。聞き取り調査によると、複数の町民は、このこと が「現捕鯨産業側からの捕鯨継続への強力なモティヴェーションとなっている」 と指摘した。  もっとも、捕鯨そのものの採算性はとにかく、漁期が限られるということも あるため、捕鯨産業側も多角化経営に乗り出しており、通年産業として成立し 得るよう構造改革の努力も行っているいることにも触れておかねばなるまい。 たとえば外房捕鯨は、ギンザケ養殖を軌道に乗せ、1991年からは、より付加価 値の高いヒラメの養殖へのチャレンジを開始している。  牡鹿町及び鮎川浜における、現実の中の「捕鯨の経済的地位」と、あたかも 捕鯨がなくなれば町が滅亡するというような捕鯨継続・再開に向けての主張の 間には、大きな落差がある。それは、すでに町の中でも少数派にすぎない捕鯨 産業従事者・現在の捕鯨で潤っている者によって捕鯨継続・再開の運動が行わ れているという可能性を、強く示唆するものである。報道などを通じて知るこ とができる捕鯨に関する主張が果たして牡鹿町全体の声であるのかどうかとい う論点については、更なる調査が必要であると言えよう(注:ほかの要因とし ては、捕鯨を存続するという方針が国による大規模遠洋漁業を擁護するための ツールとして使われているという側面があり、この指摘は町民からも聞くこと ができた。しかしこれは、鮎川浜の地域捕鯨や、牡鹿町の漁業といった本来の 論点とは、あまり関係がないもののように思われる)。
外房捕鯨の鮎川事業所、県道側の入口(2003年撮影)。
外房捕鯨の鮎川事業所(2003年撮影)。鮎川港の西のはずれにある。
外房捕鯨の鮎川事業所(2003年撮影)。

ニューニッポの社屋。1950年頃の戦後の捕鯨業界再編期に最後に設立された沿岸捕鯨会社で、日本近海捕鯨→日本近海→ニューニッポ。2003年に再訪した際には、この建物の看板は「日本近海」だが、ほかに「大洋エーアンドエフ」の社名が記されていた。
1996年訪問時の写真。古い倉庫・作業場が立ち並んでいた。
2003年再訪時の写真。古い建物はなくなっている。鮎川の捕鯨基地で火災消失という新聞報道があったが、焼けたのはこの並びの建物ではないかと思われます(未確認)。
2003年時の事業所全景俯瞰。
3-3) 鯨肉の流通  鮎川に外部資本の捕鯨事業所が出来た当時の鯨の利用は鯨油や上質の鯨肉の みであり、捕鯨会社は必要とする以外の部分、すなわち下等鯨肉や鯨骨や内臓 などを地元に払い下げていた(最初期には、海洋に投棄をしており、それが近 隣漁民にとって非常な迷惑であったことは、すでに記した通り)。こららの払 い下げ物によって、地元による鯨肥製造が繁栄することとなった。しかし、そ の後外部資本の捕鯨会社が自社で鯨肥製造に乗り出したことから、鯨肥の原料 確保の目的をもって、地元資本の捕鯨会社が設立されたというわけである。  鯨肉については、東北地方には鯨肉の食習慣がなく、氷が出まわるようにな った大正初期(1910年前後)より、鯨肉を関西方面に出荷する技術ができたこ とから、企業ベースに乗るようになったものと考えられている。あるいは、そ れを見越して捕鯨産業が鮎川に進出してきたと言うこともできよう。  最近での流通については、沿岸捕鯨と小型捕鯨とでは異なるルートが使われ ていた。  沿岸捕鯨では、大手資本(日本水産や大洋漁業など)が直接自社で処理して いた(注:このカテゴリーの沿岸捕鯨はすでに行われていない)。  小型捕鯨については、市場で競りにかけられ、後述のように1頭ごとに売買 されたのち、解体されて販売された。解体後の鯨肉は、宮城県内はもとより遠 くは東京地方などにも出荷されていた。  解体処理の際に、解剖作業に従事する者に対して、賃金のかわりに、あるい は賃金の補完分として、分肉されることがあったという。更にこれらの鯨肉を 近隣に配るという風習もあった。鮎川に水揚げされた鯨肉の地元での消費量を 示す資料はないが、商業ベースによらない流通はこの分肉によるもののみであ ったと思われる。しかしながら、この分肉の習慣も、現在ではとだえて久しい という。  鮎川では、現在も観光客相手のみやげ物屋や鮮魚店で、鯨肉が販売されてい る。しかしながら、町内での聞き取り調査によると、「必要な時には(鮮魚店 などではなく)みやげ物屋で買う」とする町民も多かった。  なお、日本全国での鯨肉価格の推移について簡単に記せば、鯨肉の入荷量が 減少するにつれて価格が上昇しており、また消費量は一貫して減少傾向にある。 鯨肉は今や高級嗜好品になってきているといえる(牡鹿町内における町民配給 分の販売価格も、徐々に上昇してきている。後述)。  鯨肉が高価な嗜好品となってきていることについて、ある町民は、「食糧事 情が逼迫している第三世界の国々が捕鯨をしたいと主張するのならばとにかく、 金持ち国の日本が、ぜいたく品としての鯨肉を食べたいといって捕鯨を強行す るようなことが、国際社会の中で許されるはずがない」という感想を漏らして いたことを付記しておく(この町民は「強行」という言葉を使った)。 3-4) 現在の鯨関連業種 (1) 鯨肉卸売業  鮎川に事業所を置いていた大手資本の鯨肉加工・卸売・販売部門は、原則と して鮎川域外にあったことから、牡鹿には大手資本による捕鯨産物の卸売業は 成立しなかった。  小型捕鯨に関しては、域内に鯨肉卸売業が存在する。鯨肉卸売業者は小型捕 鯨によって水揚げされた鯨を1頭ごとに競りによって引き落とし、解体し、売 買した。ちなみに、鮎川に水揚げされた鯨は、1984年(昭和59年)には 445ト ン約 3億5000万円、1986年(昭和61年)には 477トン約 7億2000万円であった。  現在でも、ツチクジラなどを扱う専門店と思われる店舗が存在する。
鯨肉販売店。1996年に撮影。
鯨肉販売店の入口ガラスに張られていたお品書き。
2003年再訪時に撮影。1996年訪問時は営業していた鯨肉卸だが、再訪時には「鯨肉販売」の文字はなく、営業を取りやめているように見えた。
2003年訪問時に撮影。鮎川の観光港の横にある店。観光客向けの鯨肉料理も出しているが、鯨肉卸もやっている模様。
上の食堂部分。「ミンク鯨フルコース」の文字などが見える。観光客向け食堂は (3) 鯨肉小売業の項目にも掲載。なお、ここの鯨料理は、ミンクのフルコース(大)が5000円、フルコース(小)が2500円、刺身定食が1300円、焼肉定食が1300円、鯨ベーコンの単品が2000円、など(2003年調査時点での価格)。
(2) 鯨歯加工  鯨歯加工は、もとは佐賀県(唐津など)において、マッコウクジラのあご骨 を用いた三味線のバチの加工を行っていた職人が、移り住んで来たものである。 当初は、鯨歯を用いた加工は現在のように多彩ではなく、印鑑とパイプが主で あった。その後1971年(昭和46年)の牡鹿コバルトライン開通に伴う観光客の 増加に対しての特産品創出の気運から、ブローチなどのアクセサリーが製造・ 販売されるようになった。  しかし、それらのうち細工物(彫刻物)の加工は、大阪をはじめとする関西 地方などで、主として象牙加工業者などの手によって行われており、牡鹿町内 で生産されているものは無地物など簡単な加工を施したものにすぎない。牡鹿 における鯨歯加工品販売はみやげ物屋としての性格が強いと言えよう。  鯨歯加工品の製造販売を行っている店は現在2軒が確認できた(1989年には 3軒であったとされるが、うち1軒は、1996年調査では、営業していることを 確認できなかった)。販売だけを行っている店は、多数存在する。  原料である鯨歯のストックは少なくなってきており、以前は域外にも販売し ていた業者も、現在では鮎川でのみ販売するという方針に切り替えているとい う。しかしながら、鯨歯のストックを持つ業者は、今後の値上がりに伴う収益 増加に期待をかけているようで、原料のストックを持たない業者に対しての優 越感を隠していなかった(この業者は、原料を確保した上で、外部の職人に加 工を委託しているという説明であった)。
鯨歯加工業の店舗。この項目は4枚とも2003年撮影。
鯨歯加工業の店舗。
鯨歯加工業の店舗。1996年時も2003年時も、シャッターがあいていなかったが、営業していないのかどうかは不明。
金華山のみやげもの店の鯨歯加工品コーナー。
(3) 鯨肉小売業  鮎川で食肉・鮮魚を扱う商店にも、現在では鯨肉を置いていないところが増 えて来ている。逆に、観光客相手のみやげ物屋には、ほぼ例外なく鯨肉あるい は加工品が置かれている。日常的に買い物をするための地元向けの店の中には 鯨肉を常時在庫していると思われる店も存在するが、しかしその店の存在は必 ずしも地元民にも知られているとは限らないようである。町内での聞き取り調 査によると、鮮魚店などで鯨肉が入手できることを知らない町民も多く存在し た。それらの人々の説明は「鯨肉は入手が困難であり、鮮魚店などでは入手で きない」というもので、鯨肉が必要な時にどうするのかと尋ねたところ、「な ければないで困らないが、どうしても必要な時には、みやげ物屋で買う」とし ていた。また、みやげ物屋でのヒアリングでも、町の人がたまに買いに来るこ とがあるということであった。もちろんみやげ物屋の鯨肉は鮮魚店よりも、若 干は割高である。このことは、現実には鮎川町民はすでにあまり鯨肉を食べて いないのではないかと疑わせるに足りる事実である。  置かれている鯨肉は、ミンククジラのブロック肉・ベーコン・皮・ツチクジ ラのブロック肉などであった。鮎川浜の特徴的食習慣とされるマッコウ鯨肉に ついては、1989年調査では発見できたが、1996年調査では発見できなかった。 また、加工品として、干鯨や缶詰なども置かれていた。  加工品の中には、鯨種の明記がないものも多い。これらを加工している石巻 市内の加工業者によると、原料は千葉和田浦産のツチクジラなどが多いという。 また、缶詰にも、千葉産のものが多かった。  缶詰など古くから存在する加工品以外のものについては、業者が新商品開発 として1986年(昭和61年)頃から製造に乗り出したものである。  なお、調査捕鯨によるミンク肉は、牡鹿町民の希望者に配給されている。  赤肉の価格は1991年末でキロあたり3000円、1992年夏・1993年夏/末で3300 円、1994年夏以降が3600円であった。また、世帯当たりの配給量には上限があ るが、これは配給のたびに多少異なる模様である(世帯当たり 5キログラムと いうのが標準であると思われる)。また、民宿・旅館・ホテルなどには、別枠 で供給があるという(1991年末は、配給総量は10トン、うち 9.5トンが一般家 庭用、残りが民宿及び給食用とされた。1992年末は、配給総量は10トンだが、 一般家庭用にまわされたのは 8トンで、残り 2トンは観光業者や各種行事用に 充てたという)。  町民のうち鯨肉販売を申し込む希望者は98%にも達するという。しかしなが らその鯨肉は必ずしも自家消費するとは限らないという証言もある。牡鹿町外 に住む親族などに送る場合があるほか、配給を受けた上で自家消費をせずにみ やげ物屋などに転売するケースもあるそうだ(ちなみに、1996年でのさしみ用 ミンク赤肉の、鮎川の鮮魚店において確認した小売価格は、キロあたり8000円 前後。配給価格の実に倍以上に達する)。  ほかに、1993年夏の配給ではミンク皮 1.6トンも配給された(それ以外の時 期の報道からは、ミンク皮の配給があったということは発見できなかった)。  更に、「ヤミ鯨肉」が存在することを教えてくれた町民もいたことを付記し ておく。ただし、その「ヤミ鯨肉」の鯨種や入手方法についてははっきりとし たことはわからなかったし、存在を確認することもできなかった。この件につ いては、「真相は不明である」と言うよりほかはない。
観光客向けのみやげもの店。域外に鯨肉を宅急便で配送するといったサービスも行われている(この項目はすべて2003年撮影)。

これはホエールロード(後述)沿いのみやげもの店。

同じくホエールロード(後述)沿いのみやげもの店。
金華山のみやげもの店の鯨肉缶詰。2003年再訪時にはチェックしなかったが、1996年調査の際には缶詰には千葉県産のものが多かった。牡鹿半島のつけねの石巻にも、鯨肉缶詰を製造している会社がある。
鮎川港の渡船ターミナル一階売店で発見した「クジラデリッチ」なるスナックの売り場。鯨肉入り焼き菓子、のようです。
旧鯨博物館の裏手、ホエールロード沿いにある食堂。
上の店の店外メニュー。上から3段目の左から2品が鯨肉料理。鯨焼肉定食が1800円、鯨刺身定食が1500円(価格は2003年調査時点のもの)。
ホエールロード沿いの食堂。
上の店の店外メニュー。中段の中2品が鯨肉料理。左が鯨焼肉定食、右が鯨刺身定食、いずれも1500円(価格は2003年調査時点のもの)。
寿司屋の看板。「くじら寿司」が特筆大書されている。
(4) その他の鯨関連産品〜菓子類・木彫品  鮎川では、鯨にちなんだものとして、鯨饅頭や鯨羊羹などが製造され、主と して観光客を対象に販売されている。たとえば、菓子製造業「甘月堂」などが 製造販売している鯨饅頭は、1955年(昭和30年)に開発されたものであるとい う。更に、鯨のかたちをした焼き菓子や、同じく鯨の尾のかたちをしたチョコ レート・鯨の絵を描いたクッキーなど、鯨にちなんだみやげ物用の菓子類は続 々開発されている。これらの菓子類中には、鮎川浜内で生産されているものも ある。  ほかに、鯨にちなんだものとしては、鯨木工品がある。これは、1989年暮に 和歌山県太地から講師を招いて鯨木彫の講習会を開催したのをきっかけにはじ められたもの。町おこしグループ「鯨友会」が中心となって生産している。特 産品としての定着を目指しているが、まだあまり販売している店舗は多いよう にはみえなかった。ただし、この鯨木彫は、鯨歯加工品とは異なり、牡鹿町内 で生産されているものであり、地場産業として育つことを期待できるものと言 えよう。町役場のロビーにも飾られており、今後更に強力なテコ入れがなされ ることを期待したい。
鯨まんぢゅうの製造元、甘月堂の工場。店舗はこのはすむかいにあります(2003年撮影)。
※本文中の店名を写真から読み取る際に間違えていたため、2003年撮影写真の追加・差し替えに伴い、訂正した。
鯨まんぢゅう。中身はこしあん。かなり巨大なまんじゅうです(2003年撮影)。
町営国民宿舎コバルト荘のみやげもの。Tシャツとのれん。
ホェールランド内の売店。くじらのぬいぐるみコーナー(2003年撮影)。
3-5) 牡鹿町の漁業  捕鯨関連だけではなく、水産関係産業の最後に、牡鹿町における漁業の現状 について簡単に触れておこう。最初に、牡鹿町及び隣接の女川町の漁業内訳を ご覧頂く。 <資料・漁業の内訳/1988年> 漁船使用 定置網 海面養殖      1t  1〜 3〜 5〜 10〜 30〜 100t      未満 3t 5t 10t 30t 100t 以上 -------------------------------------------------------  牡鹿 175 47 27 44 55 3 0 29 216  女川 106 23 24 24 15 0 6 2 477 (第8次漁業センサス) <資料・漁業の内訳/1956年> 漁船使用      無動 3t  3〜 5〜 10〜 50〜 100t      力船 未満 5t 10t 30t 100t 以上 ----------------------------------------  鮎川 43 2 19 3 18 4 17 (農林漁業基本調査)  ※100t以上の17隻はいずれも大型捕鯨船であった。  このことからわかるように、牡鹿町の漁業は、おおむね小規模である。また 定置網(特に小規模なもの)が多く、牡鹿町の漁業は圧倒的に沿岸系に分類さ れる要素が強いと言える。  これには理由があり、以前は遠洋漁業基地として栄えた場所もあったものの、 それらは陸運の便がいい石巻・女川などに流出してしまい、沿岸系漁業以外は 残っていないせいだという。捕鯨産業が、日本水産・極洋捕鯨・大洋漁業など の相次ぐ撤退によって衰退したのと同様の構造が、捕鯨以外の水産業にも存在 すると言えよう。また、地場資本での遠洋漁業も存在したが、それらも外部資 本に吸収されたり交通の便のいいところに移転したりして、事実上壊滅してい るという。これもまた、地場産業としての捕鯨産業が育たず、あるいは定着し なかったのと類似した構造を持つ。  しかしながら、捕鯨を除く水産業に関しては、養殖漁業の発展や定置網の有 効な利用などによって、衰退を食い止めるべく真摯な努力がなされている。た とえば牡鹿町内の谷川浜(東海岸)には、宮城県栽培漁業センターが置かれて おり、また養殖漁業もワカメ・カキ・ホヤ・ホタテ・ギンザケの養殖やアワビ・ ホッキガイ・ヒラメ・クロソイ・ニシンなどの種苗放流など、多方面の積極的 なチャレンジが続けられている。  また、単に水揚げをしてそれをそのまま域外に販売するという方法から、あ る程度の加工を域内で行ない付加価値をつけて出荷するといった方向に転換し、 利潤を確保しようという試みも行われている。 3-6) 観光 (1) 観光の現状  鮎川から海上を観光船で20分ほどのところに、古くから東北地方(特に東海 岸)の人々に信仰の島として親しまれてきた金華山がある。鮎川への観光客は 年50〜60万人台を上下しているが、そのほとんどは金華山参拝であるとされる。 金華山へは、鮎川のほかに石巻・女川からも船が出ているものの、定期便の便 数は圧倒的に鮎川発着便が多く(石巻便は最大 3往復、女川便は最大 4往復、 対して鮎川便は 4〜11月の観光シーズンには最大10往復である。定期便のほか にチャーター船も存在する)、金華山観光・参拝の拠点として、安定した地位 を占めている。しかし、金華山観光・参拝は、夏季が多い季節営業観光であり、 また日帰り客が多いため、来訪者数のわりには利益は多くはないという。  金華山以外の観光としては、好漁場を背景とした磯釣りや沖釣りがある。  観光客向けのリストによると、牡鹿町内には全部で73軒のホテル・旅館・民 宿が存在する。うち18軒が鮎川地区(半島先端部を含む)に集中している。た だし、鮎川浜にはさほど大規模な宿泊施設はなく、鮎川地区に2ヶ所ある大き な宿泊施設は、いずれも鮎川市街地より数キロ離れた半島先端部の金華山対岸 にあたる山鳥地区にある(町営コバルト荘も山鳥にある大規模宿泊施設のひと つである)。  観光客の伸び悩みや宿泊者の減少傾向への歯止めとして、現在牡鹿町では、 いくつかのプロジェクトを推進している。ひとつには、「クジラ文化の町」を 売り物として観光客の集客をはかろうという「おしかホエールランド」などの プロジェクトである。また、ほかに町営の国民宿舎コバルト荘(1971年開設、 1990年改修)やオートキャンプ場、半島先端部の御番所公園の整備などがある。 特にオートキャンプ場は非常に好評であり利用者も多いという。  牡鹿町の観光に関する政策は、「季節観光地から通年観光地へ」「(金華山 への参拝に付随した)通過点から、滞在型リゾートへ」ということである。  そういった目的を実現するために、これらの町営観光施設をまとめて第三セ クター化し、更に魅力ある観光地を目指すための中核企業とする、という構想 もあるとのことである。 <資料・牡鹿町への観光客来訪数> 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 --------------------------------------------------------------------  観光客入込数 528000 495200 477800 452000 664000 512700 640100  宿泊客 112000 94900 91600 67800 85000 73900 81300  日帰り客 416000 400300 386200 384200 579000 438800 558800                        (「町勢要覧 '92」より) (2) おしかホエールランド  おしかホエールランドは、鮎川港南側の、旧大洋漁業工場跡地に建設された 観光拠点である。大型のキャッチャーボートが揚陸展示されており、極めて目 立つランドマークとなっている。このおしかホエールランドは、1990年10月に 開館した。  牡鹿町が作成した「『おしか・ホエールランド』概要」によると事業の目的 及び基本方針は以下のとおり。 | 1.事業の目的 |  |  本町は、南三陸金華山国定公園に位置し、リアス式海岸特有の壮大な海 | 岸美と自然環境に恵まれている。特に、名勝金華山は、黄金山神社信仰の | メッカとして名高い。また、鮎川港は沿岸捕鯨基地として全国的に知られ、 | 観光名勝の一因をなしていたが、国際的な制約により昭和63年 3月をもっ | て商業捕鯨が全面禁止となり、約一世紀にわたって町の主要な産業基盤を | なしてきた捕鯨を失いつつあります。 |  町は、これらを踏まえ、捕鯨産業の歴史的な資産を活用し、「鯨の町・ | 牡鹿町」の歴史文化を後世に伝承保存するとともに、観光客のニーズを先 | 取りした施設として「おしか・ホエールランド」を整備し、新しい牡鹿の | イメージを形成することにより、通過型から通年型・滞在型観光への転換 | を図るものとする。 |  | 2.事業計画の基本方針 |  |  本町の立地条件を踏まえ、計画施設は、次の基本方針に沿ったものとす | る。 |  | (1) 鯨文化の保存と継承 | (2) 観光要所としてのポテンシャルアップ | (3) 町のシンボルの創造 | (4) 新しい牡鹿町の創造  おしかホエールランドは、旧町立鯨博物館を発展的に改組して作られたもの である。  旧鯨博物館は、1954年(昭和29年)に設立されたもので、その後1977年(昭 和52年)に鮎川港観光埠頭正面に移設された。この博物館は、骨格標本やホル マリンづけの標本などを主な展示物とするもので、学術的資料の保存館として はとにかく、観光施設としてはいまひとつ魅力に欠けるという指摘があった。 そこで、観光寄りに振った施設として計画されたのが、おしかホエールランド である。  牡鹿町開発委員会による当初の計画では、博物館と周辺の海洋生物の展示が 主であった(当初計画には、プールを作り、イルカショーなどを行うというも のも含まれていたという)。しかし、アメリカ合衆国のモントレー水族館やロ ンドン自然誌博物館などへの視察の成果などを加味した結果、映像展示や体験 展示などを主力とする日本には前例をみない「海と人間とのかかわりを改めて 構築する」ことを目的とした施設へと、計画は変更された。総工費は19億円余 りで、有料施設であるため原発交付金が使えないなどの制約があったことから、 町の一般会計及び活力あるふるさとづくり補助金(計 6億7000万円余)では不 足する約12億円分は起債によってまかなった。なお、町の年間予算は37億6900 万円であり(1993年実績)、牡鹿町にとっておしかホエールランドの創設と運 営は、極めて大きな事業であるといえる。。  おしかホエールランドは、初年より単年度黒字を記録し、2000年前後には借 入金の償却も終了する見込みであるという。  この施設の展示構成は以下のとおり。 (a) エントランスホール  吹き抜けの空間に、実物大のザトウクジラの模型などが吊るしてある空間。 ビデオによる海棲生物の展示や、水槽を設置しての牡鹿近辺の海棲生物の展示 もある。 (b) 第一展示室「くじらは昔陸を歩いた?」  トンネル様の展示室の壁に、原始的な哺乳類からの進化の課程をパネル展示。 左側には人類への進化の様子が、右側にはクジラへの進化の様子が、おおむね 左右で時代がシンクロするよう並行して展示されている。 (c) 第二展示室「地球を回遊する大旅行家。」  左側には、パネルと映像によるクジラの回遊に関する展示。ザトウクジラの キャラクターが各種のクジラの回遊について説明するというもの。  右側には、クジラの種類説明及び、インタラクティヴ方式によるクジラクイ ズ装置。 (d) 廊下  円形の廊下の外側壁面にはクジラの写真、内側壁面には水産庁の捕鯨再開を 訴えるパネル。 (e) 第三展示室「くじらになった気分です。」  頭上には骨格標本(全長17メートル)。体験展示として、エコロケーション の原理を用いた距離測定・水圧体感・クジラの遊泳速度とボートでの競争・ク ジラの肺活量の解説装置などがある。また、室内には、クジラの歌(鳴声)が 流されている。 (f) 収蔵展示室・生態標本室  第三展示室の奥に、行き止まりの部屋が2室あり、左に収蔵展示室、右に生 態標本室がある。収蔵展示室には、捕鯨用具や南極海捕鯨船団の模型などが展 示されている。生態標本室には、ホルマリンづけの実物標本が展示されている。  この2室は、順路からはずれた配置となっている。 (g) ホエールシアター  潜水艦を摸した内装の映画館(ビデオプロジェクタ上映)。映画は2本ある ようだが、観光のハイシーズンの子供が多い時期には子供向けのアニメーショ ン「愛と冒険の旅。黄金のモーリーを捜せ」を、それ以外の時期には実写映像 による「ホエールファンタジー」が上映されている。  「ホエールファンタジー」は、クジラの採餌の様子など生態やホェールウォ ッチングの映像などによって構成されたもの。また、アラスカ沖での氷に閉じ 込められたコククジラ救出作戦などの紹介もある。「クジラと人間とのいい関 係は、いまはじまったばかり」というのがしめくくりのフレーズ。 (h) キャッチャーボートの実物展示  揚陸されたキャッチャーボート「第16利丸」。船内の一部にははいることが できる。 (i) ホエールギャラリー  捕鯨船の模型やマッコウクジラの顎骨などを展示。ラウンジや売店を併設。  おしかホエールランドには、捕鯨の継続や再開を主張する展示は、ほとんど みられない。これは、この施設が観光立地をめざす牡鹿町の新しいチャレンジ のための観光施設として設計されたということが理由であるという。  町民にホエールランドに対する意見を聞いたところ、「今よりももっとレジ ャー寄りの施設にするべきだ」「捕鯨の町からクジラ文化の町へと脱皮しよう という意志のシンボル」といった、現路線に対して肯定的な声と、「ものたり ない。鯨博物館の時代の方がよかった」といった否定的な声とにわかれた。ほ かに、まるっきり無関心で「行ったことはないし、見にいく気もない」という 人々もいた。  ホエールランドは、捕鯨を基幹産業としてきた鮎川が、捕鯨を過去のものと し、観光資源としてクジラを生かそうとする新しい生き方の模索をしているこ とを意味するものとして、注目に値する。  また、観光地の展示施設としても、すでに開設以来6年を経過しているにも かかわらず、観光地の展示施設にありがちな古びた印象がなく、しっかりとし たメンテナンスがなされており、またよく計算された展示がなされていること など、熱意が感じられる。15人のスタッフの努力に敬意を表したい。  なお、観光産業にたずさわるある町民からは、現在のホエールランドには、 テーマ展などの企画が弱く、リピータ需要を確保できないという問題点がある という指摘があった。そのせいか入館者数は下降気味となっている。  牡鹿町では、今後、常設展示の充実やテーマ展の開催などを行って弱点を克 服し、おしかホエールランドをより集客力のある観光拠点として大切に育てて いきたいとの意向があるという。 <資料・おしかホエールランド入場者数> 年度 1990 1991 1992 1993 1994 1995 -------------------------------------------------------------- 入館者数 58984(*1) 151701 112625 107024 86622 約80000 *1 1990年度は10/6開館以降の人数                          (牡鹿町調べ)  なお、ホエールランドの新設によって廃館となった旧鯨博物館の建物には、 現在日本鯨類研究所の鮎川分室が置かれている。この分室は、1992年に旧鯨博 物館の廃館に伴い設置が決まったもので、地上2階地下1階延べ床面積1000平 方メートル。将来鯨研が行う生物調査・研究の機能が統合されるという構想が あるが、1996年春の時点では、まだ本格的な活動は開始していない模様。  その調査・研究セクションの移転に伴い、この分室が捕鯨推進のための広報 拠点化する可能性もある。
おしかホエールランド。県道からホエールロードへの分岐点のあたりに設置された案内看板(末尾1枚以外は2003年撮影)。
おしかホエールランド全景。右側は展示物のひとつの退役キャッチャーボート「第16利丸」。
おしかホエールランド近景。
エントランスホール。吹き抜け部分の空間を遊泳する鯨類の実物大モックアップ。
展示室のひとつ。マッコウクジラの骨格標本が天上から吊るされている部屋。

旧鯨博物館外観。観光案内所と鯨研の鮎川事業所になっている。
旧鯨博物館の内部。ホエールランドに移設されなかった標本類などが残されているほか、鯨祭のための道具類も置かれている(1996年撮影)。
(3) ホエールロードほか  ほかにも、クジラを観光資源として活用しようという動きはあり、模索が続 けられている。  たとえば西海岸の道を通って鮎川浜にはいる直前にはゲートが置かれている が、そのゲートには左右にクジラを摸した飾りが設置されており、観光客を歓 迎している。  金華山などに向かう船が出港する埠頭にも、同様にクジラのマスコットが取 り付けられている。このゲートは、1971年に初代が設置され、その後25年目の 1996年に、老朽化したため建て替えられたもの。古いゲートもクジラをデザイ ンしたものであったという。  また、鮎川町の中心地から鮎川港のそばを抜けてホエールランドに至る全長 約 350メートルの「ホエールロード」も目立つ存在である(1992年着工、1993 年完成。整備費用は約 2億2000万円)。  ホエールロードには、クジラの石像が泳ぐ池(訪問時には止まっていたが、 クジラの潮吹きを摸した噴水であるという)や、さまざまな種類のクジラのイ ラストと説明が書かれた敷石が設置されており、「クジラ文化の町」を観光の 目玉にしようという意気込みが感じられる。
町(鮎川浜)の入口のゲート。ゲートでもクジラが観光客を歓迎。この一連の写真はすべて2003年撮影。
町入口ゲートのクジラのマスコット。
港の埠頭(観光埠頭)にもクジラのゲートがある。
港のゲート上のマスコット。

ホエールロード入口のゲート。
ホエールロードにあるクジラが浮かぶ池。ただ、1996年訪問時も2003年再訪時も、池には水が張られていなかった。
ホエールロードの歩道タイル。マッコウクジラ。
ホエールロードの歩道タイル。シロナガスクジラ。
ホエールロードの歩道タイル。イワシクジラ。
ホエールロードの歩道タイル。ザトウクジラ。

鮎川漁港至近の新鮎川橋の欄干。クジラのマスコットが飾られている。
漁港脇の公園にあったマッコウクジラ型の植え込み。バックが悪くてわかりにくいんですが、潮吹きのところに1本ぴゅっと枝が伸びています(笑)。1996年訪問時にはこの公園はまだ工事中で、植え込みは存在しなかったように思われます。
3-7) 牡鹿町の人口の推移  牡鹿町の現状に関して、最後に、過疎化について触れておく。本項目では、 しばしば主張される「捕鯨がなくなれば町を維持できない」とする主張の真偽 を、人口の推移という見地から検証することを目的とする。  以下の数表は、牡鹿町全域及び各集落の1960年比の人口割合をまとめたもの である。北西隣接の石巻市の地域別推移、北東隣接の女川町全域の推移も、比 較のために掲載した。  原則として1960年の人口を 100とし、5年おきの人口を百分率で表示した。 石巻市と合併した一部地域については古い人口資料が入手できなかったため、 資料が入手できた最初の年を 100として算した(そのため、その地域の数字は、 他の地区の数字とは、直接比較はできない)。 <資料・人口の推移> 初年人口 1960 1965 1970 1975 1980 1985 1990 --------------------------------------------------------------------- 牡鹿町全域 13405 100 89.3 78.9 71.1 63.0 58.2 50.5 --------------------------------------------------------------------- <牡鹿町・旧鮎川村地区> 旧鮎川村域(*1) 8022 100 87.8 78.0 69.9 59.2 52.4 43.6 鮎川浜 3854 100 88.4 81.1 75.8 63.6 58.2 53.1 十八成浜 1000 100 85.8 79.3 68.8 58.3 48.2 43.3 長渡浜(*2) 2029 100 92.2 77.4 64.5 56.0 48.2 35.4 網地浜(*2) 1139 100 79.6 67.8 60.6 51.1 43.7 26.4 --------------------------------------------------------------------- <牡鹿町・旧大原村地区> 旧大原村域(*3) 6442 100 89.0 77.9 70.8 65.6 63.2 54.9 小網倉浜 463 100 91.3 76.6 66.9 58.3 56.5 50.5 大原浜 683 100 85.6 70.5 63.2 55.9 50.6 46.9 小淵  1041 100 99.4 91.4 84.6 78.5 74.5 70.0 給分浜 468 100 80.9 71.7 61.5 73.7 73.7 69.4 新山浜 272 100 90.4 77.2 65.8 59.5 58.8 53.6 泊浜 464 100 95.9 88.5 77.3 72.6 71.9 57.1 谷川浜 591 100 88.6 73.0 63.9 55.4 49.7 47.3 大谷川浜 266 100 84.2 74.8 69.5 62.0 59.3 56.3 鮫浦浜 209 100 86.1 76.0 74.6 77.9 109.5 96.6 前網浜 207 100 97.1 81.1 74.8 71.4 62.3 55.5 寄磯浜 639 100 91.5 84.9 85.6 82.6 84.8 74.1 --------------------------------------------------------------------- <現石巻市区域>(*4) 旧石巻地区 62360 100 109.9 117.9 121.6 127.1 129.6 128.6 田代   1020 --- 100 84.2 65.0 46.2 28.8 19.2 蛇田   5510 100 105.5 171.6 263.0 299.4 312.7 310.6 荻浜   3868 100 91.1 60.9 51.8 45.7 41.5 37.8 渡波   14385 100 97.8 111.1 114.0 120.1 122.4 125.0 稲井   6998 --- --- 100 91.7 89.3 87.1 84.1 --------------------------------------------------------------------- <女川町> 女川町全域(*5) 18002 100 100.4 98.2 94.1 89.4 84.6 77.8                       (国勢調査の数値より算出) *1 旧鮎川村は、牡鹿町南部(牡鹿半島先端部)および網地島からなる。 *2 長渡浜と網地浜は、牡鹿半島南西の網地島にある。この2地域の人口推移   と、石巻市田代(網地島北西の田代島)の人口推移とを比較せよ。島部の   人口減少は、どこも著しい。 *3 旧大原村は、牡鹿町北部であり、石巻・女川に隣接するエリアである。陸   路をたどった場合、旧鮎川村地域と比べると、遥かに交通の便がよい。う   ち、人口減少率が特に低い小淵・給分浜は牡鹿町西海岸北部の中心地であ   り、鮫浦浜は東海岸の北部にあたり女川に近い場所である。さほどはっき   りしたものではないが、半島の付け根から先端に向かうにつれ、過疎化の   進行が激化するというおぼろげな傾向が見える。 *4 石巻は基本的には人口減少にみまわれていないが、地域的に見ればかなり   の差がある。田代は、長渡浜・網地浜と同様に島であり、極めて過疎化の   進行が激しい。蛇田は、石巻市街北方の内陸部で、石巻のベッドタウンで   あり、過疎化とは無縁の状態である。荻浜は、牡鹿半島北西部にあたり、   牡鹿町と接するエリアで、牡鹿町以上に過疎化が進行している。渡波は、   石巻東方地区で、鉄道も通っている地区。稲井は、石巻北東の内陸部。 *5 鉄道が通っている女川町であるが、牡鹿町ほどではないにせよ、やはり過   疎化は進行している。  このデータから読み取れることは、町全体で過疎化は確実に進行しているが、 それでも牡鹿町はよく頑張っているという姿である。また、鮎川浜で特に過疎 の進行が激しいわけではなく、それどころかかなり不利な半島先端部に位置し ているにもかかわらず牡鹿町の中では中位の過疎進行状況にとどまっているこ とが読み取れる。満足できる状態ではないにせよ、決して最悪の状況にあると いうわけではない、と言えようか。  過疎化が牡鹿町にとって極めて深刻な問題であることは確かである。しかし ながらそれは日本各地の、たとえば交通の便がよくない場所などで一般的に発 生している状況なのであり、牡鹿町及び鮎川浜の過疎化に、個別の特別の事情、 たとえば捕鯨という一産業の衰退というような事情があるようには見受けられ ない。過疎化は、日本各地で同じように起こっている問題であり、日本におけ る社会の構造的な問題に由来するものである。牡鹿町の過疎化の進行を食い止 めるには、基本的には日本の社会構造に手をつけなければならないものなので ある、と言うことができよう。  更に、捕鯨産業と鮎川浜・牡鹿町の人口推移との関係について見てみよう。 <資料・人口推移(*1)>  記録年 鮎川浜 牡鹿町域  記事 -------------------------------------------------------------------- 1698年 433人 ( 3916人) 1772年 408人 1774年 408人 1828年 329人 1850年 202人 1887年 332人 ( 3197人) 1888年 376人 1889年 ( 3472人) 1891年 477人 1896年 ( 4473人) 1896年 ( 4406人) 1904年 ( 4981人)  1906年東洋漁業進出           1908年土佐捕鯨・紀伊水産進出 1909年 651人 1910年藤村捕鯨進出 1911年 ( 5608人) 1911年長門捕鯨進出 1915年 1135人 1917年 ( 6996人) 1925年 ( 8016人) 1930年 8559人 1935年 9486人 1940年 9902人 1943年 (10197人) 1946年 2900人 1947年 11798人 1950年 3660人 13226人 1950年日本水産撤退 1955年 3795人 13753人 1960年 3854人 13405人 1965年 3409人 11974人 1965年極洋捕鯨撤退 1970年 3126人 10581人 1971年 (11191人) 1971年外房捕鯨進出 1975年 2925人 10361人 1977年 ( 9522人) 1977年大洋漁業撤退 1980年 2453人 8949人 1985年 2245人 7814人  1988年商業捕鯨終了 1990年 2049人 6773人 *1 牡鹿町域の人口のうち、カッコがついていないものは国勢調査。カッコが   ついているものは複数の別の調査による数値であり、必ずしも連続性が保   障されていない。                  (「牡鹿町史」「国勢調査」より作成) <資料・鮎川港における鯨の水揚げ/沿岸捕鯨実績と鮎川浜の人口の増減> 年次 1955 1956 1957 1958 1959 1960 1962 1965 1970 1975 1978 1979 1980 ------------------------------------------------------------------------ 頭数 278 432 344 714 810 404 785 661 2178 1233 1054 498 628  人口比 98.5 100 88.4 81.1 75.8 63.6      (「捕鯨基地牡鹿町鮎川浜の歴史と現況」「国勢調査」より作成)  この2つの資料をつきあわせることでわかることは、鮎川浜が栄えた理由は 明らかに捕鯨産業の進出とシンクロしていると言えるが、過疎状況に陥ったこ とと捕鯨産業の衰退とは必ずしもシンクロしてはいない、ということである。 人口減少とシンクロしているものは、「捕鯨産業の衰退」ではなく、「大資本 の撤退」であるというべきである。  捕獲実績数が、単年実績・複数年加算実績が混在しているデータであると思 われることから、単純に比較してはならず区間平均を算出して捕鯨の消長を推 測する必要があるが(元のデータから区間平均値などを作成してわかりやすく することは避けた)、そうするとこの過疎の進行状況は地場産業としての捕鯨 の衰退とは無関係に生じていることがわかる。この過疎の進行は、捕鯨の終了 というような具体的かつ特定の出来事によってもたらされたものではなく、日 本社会の構造の中で牡鹿町という地域が置かれた状況に由来するものだと考え るのが自然であろう。過疎化をもたらしたものは、直接には大資本の撤退であ るが、より広く見れば、人口の都市集中という現象の加速であり、第一次産業 の地盤沈下という産業構造の変化が原因であった。  逆に言えば、このことは、捕鯨の継続・再開をしたとしても、若干の好影響 までをも否定することはできないにせよ、牡鹿町・鮎川浜の過疎化を止める力 とはなり得ないのではないかと推測させるに足りることのようにも思われる。  捕鯨の継続・再開は、牡鹿町・鮎川浜を、過疎から救うための切り札とはな り得ない。捕鯨という産業にはそれほどの力はない。捕鯨に限らず、多少の経 済的寄与をもたらすという程度の産業には、過疎を食い止めるだけの力はない のであり、総合的な政策による未来の開拓だけが、唯一過疎を食い止め得る道 なのではないだろうか。  もうひとつ、別の興味深い資料がある。 <資料・牡鹿町における人口動態>  年次 自然動態      社会動態      合計     出生 死亡 増減  転入 転出 増減  増減 --------------------------------------------------  1952 424 83 341  1097 1264 -167 174 1953 379 77 302  1237 1475 -238 64 1954 338 95 243  1113 1375 -262 -19 1955 305 70 236  1213 1475 -262 -26 1956 317 69 248  917 1207 -290 -42 1957 236 97 139  803 1058 -255 -116 1958 274 96 178  773 904 -131 47 1959   1960 245 84 161  256 479 -223 -62 1961   1962   1963   1964   1965 207 93 124  402 706 -304 -180 1966   1967   1968   1969   1970 150 74 76  311 601 -290 -214 1971   1972 130 71 50  447 917 -470 -411 1973 149 79 70  361 667 -306 -236 1974 152 91 61  344 565 -221 -160 1975 126 93 33  315 576 -261 -228 1976 112 90 22  319 684 -365 -343 1977 119 84 35  264 540 -276 -241 1978 112 67 55  282 516 -234 -179 1979 109 81 28  269 414 -145 -117 1980 105 93 12  214 473 -259 -247 1981 91 76 15  226 457 -231 -216 1982 102 77 25  319 544 -225 -200 1983 100 66 34  247 357 -110 -76 1984 91 87 4  224 419 -195 -191 1985 75 52 23  188 353 -165 -142               (「牡鹿町史」より作成)  商業捕鯨が終了したことによって牡鹿町を出ていった人々が存在することは 確かであるが、この資料からは、定住民の流出が過疎化の主な要因であったと 考えることは困難である。牡鹿町の人口減少は、主として「流入が止まった」 ことによって発生したもので、「流出が増えた」ことによってもたらされたも のではない。それどころか、人口の流出は、捕鯨産業の衰退とともに、著しい 減少を見せているのだ。  牡鹿町の人口減少は、古くからの定住者が域外に立ち去ることによって加速 されたものではない。そういう観点から言えば、「約百年続いた『捕鯨』とい うバブルがはじけ、牡鹿町は、ようやく本来の姿に戻りつつある」と考えるこ ともできよう。  この点については、「クジラの文化人類学」の中にも、符合する部分を見出 すことができる。たとえば「日本の捕鯨は過去数世紀の間多くの変遷を経てき ているが、その中には一貫した特徴が認められる。なかでも顕著な特徴のひと つは、操業地域と操業形態の柔軟性である。江戸時代の初期から捕鯨操業者た ちは状況に応じてひとつの地域から他の地域へと絶えず活動の地を移動してき た」という部分である(18ページ)。鮎川は、捕鯨産業が最後に移動してきた 場所であった。捕鯨産業の多くは、鮎川に用があったのではなく、クジラに用 があったのだ。そして彼らは、鮎川に魅力を感じなくなり、それまでの伝統に 則って、すみやかに鮎川から立ち去っていったのである。  捕鯨終了に由来する人口減について町民に聞き取り調査をしたところ、「し ょせんは捕鯨と一緒に来た人々だから」という、よそもの扱いの感想もあった。 この感想と人口動態の資料とは符合する。また、「商業捕鯨時代なみの捕鯨が 可能になるならば過疎化は食い止められるかもしれないが、再開ができたとし てもそれほどの規模にはなり得ない。過疎化を食い止められるほどの捕鯨を再 開すれば、資源の枯渇は免れないであろう」とする意見も、町民から聞くこと ができた。 <資料・上記「人口の推移」数表の算出元となった人口のデータ(人数)> 1960 1965 1970 1975 1980 1985 1990 --------------------------------------------------------------------- 牡鹿町全域 13405 11974 10581 9535 8450 7814 6773 --------------------------------------------------------------------- <牡鹿町・旧鮎川村地区> 旧鮎川村域 8022 7045 6263 5613 4756 4204 3503 鮎川浜  3854 3409 3126 2925 2453 2245 2049 十八成浜 1000 858 793 688 583 482 433 長渡浜  2029 1871 1571 1309 1137 979 720 網地浜  1139 907 773 691 583 498 301 --------------------------------------------------------------------- <牡鹿町・旧大原村地区> 旧大原村域 6442 5734 5020 4561 4229 4073 3542 小網倉浜 463 423 355 310 270 262 234 大原浜  683 585 482 432 382 346 321 小淵   1041 1035 952 881 818 776 729 給分浜  468 379 336 288 345 345 325 新山浜  272 246 210 179 162 160 146 泊浜   464 445 411 359 337 334 265 谷川浜  591 524 432 378 328 294 280 大谷川浜 266 224 199 185 165 158 150 鮫浦浜  209 180 159 156 163 229 202 前網浜  207 201 168 155 148 129 115 寄磯浜  639 585 543 547 528 542 474 --------------------------------------------------------------------- 旧石巻地区 62360 68561 73567 75856 79260 80837 80232 田代   --- 1020 859 663 472 294 196 虻田   5510 5814 9458 14495 16497 17233 17116 荻浜   3868 3524 2358 2006 1771 1607 1463 渡波   14385 14071 15995 16405 17280 17613 17986 稲井   --- --- 6998 6418 6255 6099 5887 --------------------------------------------------------------------- 女川   18002 18080 17681 16945 16105 15246 14018                      (いずれも国勢調査による) 4. 地域文化と捕鯨 4-1) 祭事と捕鯨  鮎川浜における鯨及び漁業にまつわる祭事としては、鯨祭と、海難物故者や 鯨魚霊の慰霊を行う施餓鬼供養の2つがある。また、新聞報道によると、それ らの行事とは別に鯨供養というものが行われている模様である。  それらの祭事と、慰霊塔類について説明する。 (1) 鯨祭  鯨祭は、1953年(昭和28年)の 8月22日から25日までに行われたものが最初 のものであると記録されている。これは、当時小型捕鯨で栄えており、捕鯨の 町として知られつつあった鮎川浜の発展を願ってはじめられたもので、消防団 が中心となり、町(当時の鮎川町)・青年団・婦人会などが後援して開催され た。あわせて、鯨や海難物故者の慰霊も目的とされた。また、祭を観光資源と して活用しようという意図も当初よりあったものといわれている。  記録によると、第一回鯨祭の内容は、野球大会・水上競技・大漁唄い込み・ 模型のクジラを用い実砲を使った捕鯨の実況・仮装行列・山車・花火大会・盆 踊り大会・万霊供養施餓鬼・灯篭流し・鮎川音頭の発表などであったという。  翌1954年からは、新たに鮎川鯨祭協賛会が組織され、同団体の主催で、時期 も 8月13〜15日に変更されて行われた。  しかし1960年(昭和35年)、チリ地震による津波の被害があり、その年から 鯨祭は中止される。  町の沈滞ムードの一掃を狙って鯨祭が復活したのは1964年(昭和39年)であ り、この時に中心となったのは鮎川商店会であった。時期は 8月15〜16日の 2 日間とされた。  更にその後1967年(昭和42年)の第10回鯨祭からは期日が 8月 2〜3 日と変 更になった。これは、旧会期の 8月中旬は、日本では全国的に「盆」と呼ばれ る宗教行事があり、観光には適さない時期であるためだと考えられる(日本で は、盆の時期には、あまり観光旅行は行われない。故郷に戻って宗教行事に参 加しなければならないからである。ただしこの習慣は、近年急速に風化しつつ ある)。現在の行事の内容は、宮城県警音楽隊の演奏・町内小学生による鼓笛 パレード・婦人会民謡パレード・鯨ショー・鯨みこしを伴うパレード・郷土民 俗獅子振り大会・民謡大会・花火大会などとなっている。  なお、鯨ショーだが、新聞報道(河北新報)によると、第一回の鯨祭のほか に少なくとも1992年には、現役の捕鯨船を使ったショーが行われたようだ。し かし、継続して行われているメインのショーは、網取式の古式捕鯨を摸したも のであるという。念のためだが、鮎川浜を含む近隣の地域で古式捕鯨が行われ ていたという記録はないようである(*1)。  鯨祭の観客動員数は、1991年の主催者側発表で 15000人であったとのこと。 *1 この地方にも「網取式捕鯨」が存在したと主張しているようにも読める文   献に、アルバアタ大学のミルトン・フリーマン氏による「くじらの文化人   類学」がある。本著作では、捕鯨技術の伝播の項目の図示説明のうち1675   年〜19世紀末の項目で、山口から牡鹿半島付近(地名表記なし)に網取式   の技術が伝わった、としている。   文中では、「1887年(明治20年)には、鮎川は人口わずか 332人の小さな   漁村であり、捕鯨技術をもっている人は一人もいなかった。この地方では、   江戸時代末期に網取り式捕鯨が試みられてはいたが、捕鯨の伝統が本当に   根づいたのは20世紀初頭になってからであった」と説明されており、なん   らかのかたちで伝統捕鯨である網取式捕鯨が行われていたことを示唆して   いるようにも読み取れる。   しかしながら、「牡鹿町史(上巻)」には網取式捕鯨に関する記述が全く   ないことなども鑑みて判断するならば、少なくとも現在の牡鹿町の範囲で   網取式捕鯨が行われていたと信じることには、かなりの無理があるように   思われる。   もっとも、近代捕鯨ショーよりは網取式捕鯨のショーの方が見栄えがする   であろうことから、観光資源として考えた場合、この選択は理解できるも   のである。「事実にもとづかないから網取式捕鯨ショーはやめるべきであ   る」と主張するのは、これは『野暮』というものであろう。   とはいえ、網取式捕鯨ショーが「網取式の時代から鮎川では捕鯨が行われ   ていた」という誤認を広める可能性があることもまた指摘しておかなけれ   ばならないし、この問題が解決されなければ「網取式捕鯨ショー」を行う   という判断そのものが批判を受ける可能性もまた否定できないようにも思   う。
鯨祭りの捕鯨ショーで使われるクジラ(2003年撮影)。ホエールランドの横においてあった。
鯨祭りで使われるのであろう鯨神輿。旧鯨博物館館内においてあった。
(2) 施餓鬼供養  施餓鬼供養は、海難物故者及び鯨や魚の霊をとむらうための宗教行事であり、 夏季の盆の行事のひとつとされている(「鯨祭」の項目でも簡単に触れたが、 盆とは、その時期にだけ死んだものの霊が現世に戻ってくるので、それを迎え るという習俗。戻ってくる霊を出迎え、もてなし、見送るというのが、盆とい う宗教行事の基本的な概念である。また、日本には、人間と人間外の生物とを 霊的な側面で区別するという思想は存在しない。もっともこの思想も近年急速 にすたれつつあり、西洋的思想である人間中心主義が、欧米以上に独善的な姿 を伴って、台頭してきている)。  この施餓鬼供養は、鯨祭にあわせて行われていた時期もあるが、若干ずらし て行われている時期もあり、一定しない。当初は消防団の手で行われて来たが 1981年(昭和56年)からは、人手不足と伝えられる理由から、仏教寺院である 真言宗観音寺によって執り行われている。  施餓鬼供養の際、人間や鯨の霊を象徴する位牌は海岸に作られる施餓鬼棚に 安置され、供物などが捧げられ、読経がなされる。施餓鬼供養への参加者は、 例年 100〜200 人程度であるという。  ほかに、鳥羽捕鯨が彼岸・盆に、東泉院という仏教寺院で、鯨供養を行って いる。 (3) 慰霊塔  鮎川浜にある観音寺の境内に、捕鯨関連の供養碑などがいくつか存在する。 ただし、鯨の供養に関するものというよりは、捕鯨関係の海難死亡者などに関 するものが多い。 <資料・観音寺境内の捕鯨関連碑>  哀悼碑 東洋捕鯨が1922年(大正12年)12月の、自社のアバロン丸          の遭難にちなんで建立したもの。  記念碑 東洋捕鯨が1928年(昭和3年)4月の、自社の第三東洋丸の          遭難にちなんで建立したもの。  三界万霊塔 伊佐奈商会が1932年(昭和 7年)に建立したもの。伊佐奈          商会は、塩蔵肉など鯨産品を扱っていた。  千頭鯨霊供養塔 鮎川捕鯨が1933年(昭和 8年)に建立したもの。  海ニ眠る碑 戦没殉難者のために大洋漁業が建立したもの。                        (「牡鹿町史」より作成) (4) 鯨霊供養祭  新聞報道(河北新報)によると、1993年の鯨祭に際して、「はじめて鯨霊供 養祭が営まれた」という。この供養祭と施餓鬼供養との関係はよくわからない が、この回の鯨祭のオープニングセレモニーという扱いであったらしい。  鯨霊供養祭が終わったあと、ツチクジラの焼肉大会(計 200キロ2000人分) を皮切りに、1993年の鯨祭がスタートしたそうだ。 4-2) 教育活動と捕鯨  捕鯨で栄えた町・鮎川でも、最近では捕鯨に関する教育はほとんど行われな くなっている。1992年の新聞報道によると、教科書や宮城県の副読本などから 捕鯨に関する記述がかなり前に消えたこともあり、捕鯨問題などについての関 心は低くなってきているという。また、鮎川小学校の校歌の3番(1947年に制 定されたもの)には、「極洋の果てまでも捕鯨の業に従える、日本の男児勇ま しく潮を切りて乗り出す」という部分があるが、こういったものもあまり歌わ れなくなってきているそうだ。  あるいは、鮎川の町役場隣にある牡鹿町公民館の図書室には、日本捕鯨協会 が寄贈したパンフレットが貸し出し用として用意されているが(「なぜ捕鯨か」 が 6冊、「鯨と人間」が11冊)、いずれも借りだされた形跡はなかった。また、 牡鹿町公民館図書室の棚には、鯨関連の書籍は2棚のみ。すぐ隣には、隣接す る女川町に女川原発があるせいであろう、原発関連の書籍が、4棚分保管され ていた。  以下、現在の教育活動から捕鯨に関するものを紹介する。 (1) 学校給食における鯨食  牡鹿町では、1988年より、牡鹿町内に9つある小中学校全部の学校給食で、 月1回年9回程度のペースで、鯨肉料理が提供されている。これは「鯨食文化 の維持」を目的に始められたもので、調査捕鯨によって得られたミンク鯨肉の 供給を受けたものの一部がそのために使われている。  この鯨肉給食は、日本側が外国プレスなどを招待しての牡鹿ツアーが行われ る際にも、視察対象として取り扱われることがある。  給食で出されるメニューは、鯨肉のしぐれあえ・鯨肉の竜田揚げ・鯨肉のト マトシチューなどであるという。新聞報道で報じられたメニューの中には、伝 統鯨料理に類するものは発見できなかった。もっとも、日本人の大半にとって 鯨肉は、第二次世界大戦後の食糧難の時期に非常食として出会ったものであり、 ほとんどの人は代用肉、あるいはこういった給食料理で、はじめて鯨肉を食べ たのである。そういう意味では、給食で鯨肉を食べるというのは、伝統食文化 や日本料理とは全く関係がないものの、日本におけるある種の食文化であると 言えないことはない。 (2) 牡鹿町に関する副読本  牡鹿町教育委員会は、1993年(平成 5年)から配布する小学校社会科の副読 本を 8年ぶりに改定した。新しい副読本には、牡鹿町の変貌ぶりが淡々と描写 されているという。  この副読本の編集にたずさわったスタッフは、新聞社の取材に対して、「捕 鯨再開など政治的な問題には公教育として触れられないが、現状を認識させ、 どうしたら故郷がよくなるかを、子供たちに考えさせたい」と語っている。 (3) 彫刻教室  公教育ではないが、学校が休みになる第二土曜日に、新しい鮎川の特産品を 目指す鯨木彫などを作っている「鯨友会」は、小中学生に鯨木彫づくりの指導 を行っているという。
公民館の書棚。クジラ関係は2棚。
公民館の書棚。原発関係は4棚。
5. おわりに  このレポートは、鮎川浜及び牡鹿町の現状を紹介し、その地域にとって捕鯨 がこれまでどういった意味を持っており、これからも持ちつづけるのかを考え て頂くための素材を提供することを目標として作成した。本レポートが下敷き とした阿部氏のレポートには「5.鮎川捕鯨存続について」という項目が附され ており、報告者の目から見ての結論(捕鯨の継続は不要であるとするもの)が 記されていた。しかし、今回はそういった結論は記さず、読者の判断にまかせ たいと思う。  わたしは、鮎川浜や牡鹿町の人々を非難するために鮎川を訪れたわけではな いし、また敵対することを目指すものでもない。逆に、日本の各地で進行して いる「過疎」という不幸な状況の中で、牡鹿町の人々が果敢に未来を切り開こ うとしている姿に感銘を受けたし、その成功を祈るものである。もしもこのレ ポートの読者の中に、鮎川浜や牡鹿町に興味を持ち、現地を実際に訪れ、多少 なりとも観光などを通じて経済状況の改善などに寄与してくださる方が出れば 嬉しく思うだろう。わたし自身、チャンスをみつけて今後もいくたびか鮎川浜・ 牡鹿町を訪れ、そのチャレンジがどのような展開をみせているかを見届けたい と思うし、可能であればなんらかの寄与をしたいとも思うものである。  さて、とはいえ、全く私見を記さないというのもレポートとして不十分であ るように思われるため、鮎川浜を訪れた印象や、捕鯨問題に注目していたもの から見た問題点などについて記しておこうと思う。  今回の旅行が思わぬ調査に発展した理由は、初日に訪れたおしかホエールラ ンドの映画「ホエールファンタジー」を見て、強い違和感を覚えたからであっ た。「捕鯨の町・鮎川」という強い先入観を持って訪れた鮎川で、それも鮎川 のシンボルともいえるホエールランドで、「クジラと人間とのいい関係は、い まはじまったばかり」というようなフレーズを聞くことになるとは思わなかっ たのだ。そこで気付いたのだが、ホエールランドには、ほとんど捕鯨を推進し たいというような意志表示がみつからなかった。ホエールランドは、クジラの 生態などを知りたい人にとっては好適な、極めて優れた施設として設計されて おり、ごく一部のパネル展示などを除けば「環境保全のための施設である」と 言われても不思議には思わないような印象を与えるものであった(もちろん当 然ながら、反捕鯨色もまた全く存在しないのだが)。  つまり、おしかホエールランドは、極めて注意深く中立を保った施設であっ た、ということである。  それは、鮎川を訪れる前に予想していたものとは、全く異なる姿であった。  わたしは、反捕鯨派であると見られたことから(わたしに、捕鯨推進派の中 の一部の人々から反捕鯨派と思われる要素があることは否定しない)、IWC 京 都会議の会場前でいきなり捕鯨推進派の人々にプラカードで殴られるとか、耳 もとにハンドスピーカーを突きつけられ罵倒されるというような経験もしてき ている。率直に言おう、そういう経験を通じて、捕鯨の存続を叫んでいる(よ うに思われた)鮎川もまた、ヒステリックでエキセントリックな町なのであろ うという先入観を持っていた。鮎川を訪れたときの気持ちには、半分くらい、 「恐いもの見たさ」があったということも白状しておいた方がいいかもしれな い。  しかし、どうやらその先入観は、間違ったものであるように思われた。  そのことに気付いた時から、先入観を捨てた新しいスタンスで、鮎川浜を探 検し、資料を集め、いろいろな人に話を聞くという、なかなかにエキサイティ ングな、わたしの旅がはじまった。  今回の旅では、最終的には、町内で会った約20名の方々に、お話を伺った。 漁港でお会いした他の港から来ておられた漁民の方1名を除いて、残り全員が 牡鹿町に住んでいる方であった。その中には、町の中で高いステイタスを持っ ている方も幾人か含まれている。戻ってきて河北新報を含む新聞記事を調べ直 したところ、その中にも幾人かお会いした方のお名前を見出すことも出来た。  今回は、このようなかたちで詳細なレポートをまとめることは予定していな かったため、お話をどこまで公表していいのかを個別に確認していない。また、 捕鯨問題はなにぶん微妙な利害がからむ問題であるため、どなたがどのような ことをおっしゃったかを詳細に記すと、ご迷惑をおかけすることになるかもし れない。よって、個別に発言者が特定できるようなかたちではお話の内容を記 すことができないが、たいへん興味深い話を伺えたことに感謝する次第である。  なお、残念ながら、今回お話を伺った方々の中には、現在も捕鯨産業に直接 従事しておられる方は含まれていない。しかしながら、「鮎川が捕鯨を推進し たい理由」については、幾多の資料が存在しているため、捕鯨従事者の方々の 主張などについては、他の資料をあたって頂くことで補完できよう。その点に ついては、個々の読者の努力に期待したい。  その聞き取り調査だが。  これまで、各種報道などを通じて耳にしていた範囲では、鮎川浜の人々は、 おおげさに言えば一人残らず捕鯨という過去を誇りに思っており、再建したい と考えており、かついわゆる反捕鯨派の人々に激しい敵意を抱いているように 思われた。しかしながら、わたしが話を伺った約20名の方々の中には、驚くべ きことに、そういった方は、おふたかた程度しかおいでにならなかった。もち ろん6000名余の町民のうちの約20名の方々への聞き取りをもってして町の大勢 を判断するのは、あまりに無謀であろう。また、正体不明の旅行者に対して率 直な思いのたけを述べて頂けるものと期待することにも無理があろう。とはい え、「強く捕鯨の再開を訴える方」が、お話を伺った方の中にわずか1割程度 しかおられなかったということは、わたしにとって極めて衝撃的なことであっ た。  当然のことながら、直接の捕鯨産業関係者などは、強く捕鯨の存続・再開を 願っていることであろう。しかし町民全体を通して見た場合、捕鯨存続・再開 を要求する運動は、必ずしも好感をもたれているとは言えないようであった。 「なぜほんの一部の人々の利益のために、町をあげて運動をしなければならな いのか?」と、疑問を提示する町民もいた。「捕鯨の再開には無関心な町民が どのくらいいるか」という設問に対する回答は、「5割」から「8割」までの 間に分布していた。この数字そのものには統計的な裏付けはないようだったが、 いずれにせよ町民の過半数は、捕鯨の継続ないしは再開について、あまり深い 関心を持っているようには思われなかった。  このことについては、たとえば1995年に行われた牡鹿町の町長選挙での候補 者の主張と投票結果も傍証となるだろう。  この選挙は、3選を目指して立候補した(そして1989年から毎年 IWCに参加 し捕鯨の再開を訴えている)安住重彦氏と、元町議会議員の木村富士男氏の間 で争われた。2期の町長としての実績を持ち、観光資源としての町の整備など を評価されていた安住氏は、しかしながら予想外の苦戦に追い込まれた。結果 は僅差で安住氏が3選を果たしたが(有権者数5096人、投票総数4659票、うち 安住氏2389票、木村氏2236票。町選管への電話聞き取り)、この選挙で安住氏 の対立候補として善戦した木村氏の主張の中には、「町の捕鯨再開への努力は するが、多大な町費を使って毎年海外の IWCに町長が参加することは見直すべ きだ」というものも含まれていた。安住町長は1989年から毎年 IWCに参加して おり、たとえば日本国内の京都で IWCが行われた1993年には、町長の派遣など にあてられる捕鯨復活活動事業費には、1500万円が配分されていた。この支出 に対して異議を唱えた候補が善戦したということである(念のためだが、木村 氏は、捕鯨を断念すべきであると主張したわけではない。また、報道では、基 本的にはこの選挙は「争点なき選挙」であったと評価されている)。  すでに牡鹿町の過疎化状況について記した項目でも触れたことだが、牡鹿町 の過疎化はかなり深刻な状況にあると言えよう。しかしながら、過疎化は、日 本の各地で進行していることであり、ある場所の過疎化が特定の原因に基づく ものであると考えるのは、正しくないように思われる。過疎化は、第一次産業 を軽視する現在の日本経済の方向や(その中には、世界中から食糧を輸入し、 飽食の限りを尽しているといった状況も含まれる)、交通の未整備などによる 不便さなどが、原因となって発生しているものである。それは、極めて根が深 い問題なのであり、捕鯨産業の衰退に限らず、単一の原因に帰せられるもので はない。また、ひとつの産業を維持したところで、解決ができるような問題で もない。  更に言えば、「2-2)鮎川の近代史」で触れたように、捕鯨産業があたかも覚 醒剤のように鮎川に一時的かつ空虚な「盛況」をもたらしたという側面はある わけで、鮎川を今後も「捕鯨の町」と位置付け続けることは、いろいろな意味 で更に鮎川の状況を悪化させる可能性すらあるように思われる。捕鯨という産 業を続けたとしても、過去に鮎川を盛り立てた大資本は二度と鮎川に戻って来 ないと考えざるを得ないし、過去の鮎川の賑わいも戻っては来ないのである。  そういう観点からも、鮎川の衰退を捕鯨の禁止に重ねて見ることは不適切で あり、問題の中核を見失わせるものである。  もうひとつ思ったことは、この地域捕鯨の問題には、都市の身勝手さや資本 の論理というものも、非常に深刻な影を落としているということである。  史上最大の迷惑施設のひとつである原子力発電所が、過去に捕鯨基地であり、 現在過疎化に苦しんでいるところを狙い撃ちするように計画・建設されている ことからも、それは伺われる。牡鹿町の隣の女川町には東北電力女川原子力発 電所が稼動しており(*1)、牡鹿町にもリアルタイムで放射能モニタリングの結 果を町民に知らせる設備がある。同様に、過去に捕鯨基地であった和歌山県太 地にも原子力発電所の計画があり、太地の人々は勇敢にその計画に抵抗し続け ている(このレポートを読むかもしれない太地の方々へ。わたしは、こと捕鯨 問題に関してはみなさんとは異なる意見を持っていますが、あなたがたの原発 に反対する闘いを高く評価しており、心強く思っています。太地のみなさんの 原子力発電所建設計画への闘いが、願わくば、勝利に終わりますように(*2))。  ある地方の文化を尊重し、維持したいと本気で思っている人々がその地方に 原子力発電所を建設しようとしたりするだろうか。日本という国は、あるいは 日本の捕鯨を継続したいと主張する人々は、本気で鮎川などの地方を尊重し、 その地方の文化や生活を守りたいと、ほんとうに思っているのだろうか?  鮎川の捕鯨産業の歴史を眺めていると、「都市に基盤を置く外来資本が、鮎 川をいいように使い、儲けるだけ儲けてから見捨てた」とまとめることができ るように思う。そして、残された人々が茫然と立ち尽くしているというのが、 現在の鮎川の姿を正確に描写する表現であるように、わたしには感じられる。  そして、現在もその状況は続いている。女川原子力発電所の存在も、そのひ とつの象徴であろう。いみじくもある町民が言った「『鮎川の捕鯨を守れ』と いう主張は、(大資本が)遠洋漁業を続けるための防波堤であり、捨て石なん ですよ」という自嘲を交えた分析も、同じことを述べているのではないのだろ うか。 *1 牡鹿町は、1967年(昭和42年)に、東北電力女川原子力発電所の誘致決議   を行っている。また、1979年(昭和54年)に、寄磯浜漁協などは、建設へ   の同意書に調印している。このタイムラグから、必ずしも原子力発電所の   進出が歓迎されてはいなかったことがわかる。また、その間に、原発を建   設したい人々 -―原子力産業や、原子力産業のバックアップを受けた電力   会社の人々―- の猛烈な攻勢があったことも、想像に難くない。   もっとも、その主戦場は、牡鹿町でなく女川町であったものと思われる。   今回のレポートは、原子力問題を中心としたものではないため、女川原発   の建設が決定されるまでの経緯については、詳細を調査していない。 *2 このことに関して、反・反捕鯨活動家として有名なマグヌス・グドムンド   ソン氏は、東京の大日本水産会の会議室で行われた水産記者との懇談会の   席上、原発問題などを理由に環境保全側の主張に耳を傾けたり手を組んだ   りするのは愚かなことであると述べ、「グリーンピースなどの環境保全団   体に対抗するには、いろいろな業界が手を組んで対抗することが大事」で   あると断言している(おそらく1994/02/15)。   グドムンドソン氏の、「原子力産業と漁民が手を組めばよりよい未来を引   き寄せることができる」というアイディアは、なかなか斬新なものだと言   えよう。このアイディアを採用することがいいことなのかどうか、このア   ドヴァイスを受け入れることが漁民の方々にとってより望ましい未来をも   たらすことなのかどうか。その判断は、漁民の方々にゆだねたい。
女川原子力発電所。金華山〜女川の高速船上から(2003年撮影)。
女川原子力発電所(2003年撮影)。
牡鹿町の総合福祉パークの看板。「電源立地のまち」「原子力の日」の文字が見える(2003年撮影)。
 わたしは、全ての捕鯨をやめるべきだという結論も、鮎川の捕鯨を肯定して 継続を認めるべきだという結論も、このレポートでは記さない。より正確に言 うならば、わたしは、この点について、確たる結論を持っていない。  それでも、あえて結論らしきものを記すならば、こういうことだろうか。  鮎川や牡鹿町、そして日本全国の過疎に苦しむ地域の悩みを解決するために は、「鮎川の捕鯨」というような個別具体的な問題について論じるより前に、 考え、片付けていかなければならない問題が、たくさん横たわっている。それ らの問題から目をそむけ、根本的な問題の解決を模索することなしに、鮎川の、 あるいは過疎に苦しむ過去に捕鯨で賑わったすべての地域の捕鯨を、それだけ 取り出して論じることは、ほとんど無意味である。  わたしは、であるがゆえに、特に鮎川の外から「鮎川の捕鯨を存続させるべ きだ」と主張しているすべての人々に対して(いま少し具体的に言うならば、 たとえば鮎川の隣に原子力発電所を建設することを平然と認めている日本政府 に対して。あるいは、たとえば鮎川から水産基地を引き上げて恥じるところが ない水産業界や、そういった行動に代表される経済構造を是認する人々に対し て)、問いかけたいことと、訴えたいことを持っている。  「あなたはほんとうに、鮎川のためを思って捕鯨の推進を主張しているので すか」ということが、問いかけたいことである。「捕鯨の再開では決して解決 できない、鮎川が抱える大きな問題を解決するために、あなたもなにか実効の ある支援をしてください」ということが、訴えたいことである。  長文にわたるレポートをお読みくださいましてありがとうございました。  わたしはこのレポートを、ある町民の言葉でしめくくろうと思います。  「過去にこだわっていては、町は衰退する。未来をみつめなければ」。 =====
<参考文献> 町勢要覧'83/'89/'92       牡鹿町 60年度納税資料          牡鹿町 牡鹿町史             牡鹿町町史編集委員会 昭和59、61年度鮎川港水揚げ資料  牡鹿町漁業協同組合 鯨のはなし            牡鹿町立鯨博物館 捕鯨基地牡鹿町鮎川浜の歴史と現況 牡鹿町立鯨博物館 おしかホエールランド概要     牡鹿町 市勢要覧'93            石巻市 町勢要覧'91            女川町 女川町統計書・平成7年度版    女川町 水産物流通統計年報昭和55年版   農林水産省 水産物流通統計年報昭和60年版   農林水産省 第7次漁業センサス報告      農林水産省 くじらの文化人類学        ミルトン・フリーマンほか  北の捕鯨記            板橋守邦 捕鯨問題レポートII        阿部治/エルザ自然保護の会 日本地誌第4巻          小笠原節夫/日本地誌研究所 河北新報1991/01/01以降      河北新報 環境倫理研究会発表資料      川端裕人 <地名読み>  牡鹿    おしか  鮎川浜   あゆかわはま  十八成浜  くぐなりはま  谷川浜   やがわはま  大谷川浜  おおやがわはま  網地浜   あじはま  給分浜   きゅうぶんはま  小淵    こぶち  小網倉浜  こあみくらはま  新山浜   にいやまはま  泊浜    とまりはま  寄磯浜   よりいそはま  鮫浦浜   さめのうらはま  長渡浜   ふたわたしはま  清水田浜  しみずだはま  大原浜   おおはらはま  金華山   きんかざん  清崎    きよさき  黒崎    くろさき  山鳥    やまどり  御番所   ごばんしょ  荻浜    おぎのはま  渡波    わたのは  女川    おながわ  石巻    いしのまき  田代    たしろ